○か×か、それとも別の方法が…
たとえば、戦時中は「産めよ、ふやせよ」という合い言葉のもとに、「母性」を国家が利用し、女性を総動員体制へと組みこんだと批判がある。このような研究をもとに、文学研究者は、たとえば子どもを産まない女性が登場する小説を「戦争」への抵抗の書と意味づける。国家は戦争遂行のために「母性」を利用したが、そのような状況のなかで、子どもを産まない女性が出てくる小説を書くということは、国家への抵抗となるだろうという。そういう読みもたしかに可能だ。でも、戦争を語り始めると、結局戦争を肯定したか抵抗したのか、その二項対立で読むしかなくなってしまう。ある作家が、国家の政策と異なるものを描いたら、抵抗で良い作品。国家の政策と似ていれば、戦争肯定者として批判する。そうした二項対立しか戦争は産まない。戦争が野蛮なのは、○か×かの二つしか選べなくなってしまうからだ。
「だから……だめだ」とこれまでの私は、たびたび日記のなかでテクストの外部に安易に依拠してきた研究を批判してきた。しかし、そこには深刻な誤りが存在していることに気が付いた。
バフチンを持ち出すまでもなく、言葉は社会と切り離せないということを思い出したからだ。テクスト内で精緻なテマティックな分析をしても、「言葉」を扱う以上、テクストの外部は否応なく侵入してくる。テクストを内部で閉じた世界に保つことは、言葉を精緻に読めば読むほど不可能になるのではないか。最近の日記を読み返しながら、そんなことを反省する。テクスト内部だけで完結させようとしていた私の方法は、ありもしないユートピアを妄想していただけであり、何か重要なことを忘れていたのだ。
では、いったい私たちはテクストをどのように読めばよいのだろう?中庸をとって、外部と内部をほどよく組み合わせるというのも一つの賢い選択なのかもしれない。バランスが重要だとはよく言われることだ。でも、私はどうもそういう中途半端なことは納得できない。もっと別な、根本的に異なる思考方法はないのだろうか?