蓮實重彦のトークショーに感激する

『晩春』の上映終了後、引き続いて蓮實重彦トークショーが始まる。きょうはこれがメインの目的だったのだけど。やっぱり、聞いて良かった。めちゃくちゃ面白い内容だった。
トークの冒頭、ゴダールを引用して映画は滅ぼされていく、なんて言う。だけど、小津映画は滅ぼさせないと。そして、蓮實映画論ではおなじみの「われわれは映画を見ていないのだ」と挑発する。人類は動く絵を嫌うのだ、と。
映画を見ない人々は何をするかといえば、映画をすぐに物語に還元してしまう。小津といえば、「あの家族映画を撮り続けた人だ」と簡単に言ってしまう。だが、それは映画を見ていないということだ。
たとえば『東京物語』。この映画で、珍しいのは義理の娘である原節子が父の笠智衆に向かって、非常に強い調子で否定をすることである。父が「あんたはいい人だ」と言ったとき、原節子ははっきりと「とんでもない!」と言う。父に向かって、娘がこれほど力強く反抗するのは小津の映画では珍しい。このシーンが重要な「運動」であることを蓮實氏は何度も強調していたのが印象的だった。
さらに、蓮實氏には『東京物語』でどうしても理解できない謎が一つあるという。それは、笠智衆東山千栄子らが演じる夫婦の間に子ども5人(?)もいる/た、ということだ。子どもがこれだけいるのは、小津映画では極めて珍しい。小津の映画では、たいてい子どもは二人で、一人は戦死なりしていなくなっているというのだ。どうして、小津はこの映画でこの夫婦に5人も子どもを産ませたのか。それが、どうしても分からないと述べていた。
東京物語』では、子どもたちはみな離散しており、ほぼ家族は崩壊してしまっている。息子の妻、つまり義理の娘の原節子と父の笠智衆だけが残るという、言われてみれば不思議な映画なのだ。蓮實氏は、この二人を向かい合わせるために、他の子どもたちを画面から消していってしまったような映画だと。この解釈もなるほどと思う。こうなると、『東京物語』は、もはや「家族物語」ではなくなってしまうだろう。それどころか、「反=家族物語」の映画だとも言えてしまうのかもしれない。
『監督小津安二郎』を書いた蓮實氏ですら、『東京物語』は未だ理解できないと言う。小津映画もまだ全貌を現わしていないのだ。
さて、続いて蓮實氏は小津映画に見られる「バレエ的なもの」を指摘していた。一つは、女性の登場人物が男性が落としたものを拾う仕草であり、二つ目は、その拾ったものを男性にドサリと投げつける仕草だ。
小津映画の男性、それはたいてい父であり夫であるが、彼らは帰宅すると着ていたものを、それは見事に脱ぎ散らかしていくという。こんなことは、いくらかつての日本の家庭であってもありえないと。不自然なことだ。だが、彼らは平然と着ていたものを脱ぎ、床に投げ散らしていく。そして、その落ちた服を女性達は、これもまた見事に拾っていくのだ。映画を見ない「バカ」は、こうしたシーンを見ると、日本の家庭は女性が虐げられているなんて言い出すが、それは違う。明らかに、このシーンは演出なんだと。それは見れば分かることなんだ、という。
さらに「バレエ的なもの」として、座っていた人が立ち上がるというシーンを指摘し、この仕草こそ小津映画の本質であることを述べていた。映画用語では、カッティングインアクションというものが、立ち上がる仕草のショットの時に使われている。簡単に言うと、座った状態から立ち上がった瞬間に、一八〇度カメラの位置が変わるのだ。お尻側を写していたカメラは、人物が立ち上がる瞬間に人物の正面に移る、というわけだ。小津映画には、こうした規則があるという。たとえば、三宅邦子という女優がいる。彼女は、実に軽々と大きなお尻を持ち上げて立ち上がると。この「運動」を小津は撮りたかったのではないかとも思える、と述べていて面白かった。
とまあ、こんな感じの内容のことを約一時間ほど話した。私などは、すごい勉強になった。私も『東京物語』の原節子が父を否定をするシーンは好きだ。また、今度『東京物語』を見てみたくなる。
小津の映画もすごいのだけど、蓮實重彦の映画分析はすごいな、と感心する。実に見事だ。話し方もめちゃくちゃうまいし。やっぱり憧れてしまう。私もいつか言ってみたい、「あなたは映画を見ているのか」と。