そこそこ面白い
◆廣末保『新編 悪場所の発想』ちくま学芸文庫
定住民つまり日常生活と対立する遊行民(「遊行的なるもの」)=非日常が本書に鍵となる。「遊行的なるもの」の形態の喪失が悪場所という「場所」の出現となる。したがって、悪場所もまた「遊行的なるもの」と無関係ではない。
定住民にとって、遊行民は二重の意味を持っていたことが大切。制外者の集団として賤視される一方で、同時に「脱秩序的」な性格も合わせもつ。悪場所もまたこのような二重の性格を持っている。
呪術宗教的な遊行芸能民は、御霊を管理し、御霊に扮することによって、土着定住民の精神を支配しようとしたが、それは、遊行という非日常的な時空を生きることによって定住民の日常生活にむかいあうことであった。一方、定住民は、共同体から離脱したその遊行性のゆえに、かれら遊行民を賤視し、しかも、非日常的な精神をになうその呪術的な能力のゆえに畏敬した。そこに、非日常的なものをにない・になわせるという関係があった。(p.226)
この遊行民の記憶が、悪場所の論理に組みこまれているという。
少々、理論的な論なので私には理解しにくい本なのだけど、読みながら頭に浮かんでくるのはバフチンのカーニヴァル論あたり。
「遊行的なるもの」「悪場所」といった概念で、中世から近世の芸能、文学を論じているが、底にあるのは近代(文学)批判なのだろう。
「遊行的なるもの」や「悪場所的なるもの」について考えるということは、こうして、日常的な定住空間の枠内には収斂することのできない(あるいはその裏側に忍ばせている)民衆の多義的な創造力や論理に出会うということでもあった。そしてこのことは、民衆の口頭的な伝承行為の多くについてもいえよう。
しかし伝承行為は主体的な個の創造行為にとってかわられる。それは有「名」の個の主体が自立していくことでもあったが、それを裏返せば、無「名」性にひそむ多義的な発想を捨象することによって民衆を(その歴史を)対象化しようとする主体が、近代的な主体の名のもとに形成されていったということでもあった。いま、そのような主体意識からどのようにして脱出することができるか。(p.307)
今でこそ、本書のような評論は珍しいものではなくなったけど、発表当時に読んでいたら、きっとすごく刺激な本だったのだろうなあと思う(今でも十分に参考になる本だけど)。