三島由紀夫『若きサムライのために』

三島由紀夫『若きサムライのために』文春文庫、1996年11月
三島のあとがきによれば、若い人に向けて、「砕けた表現で、精神や道徳の問題を語ろうとした」ものだという。そのため、とても読みやすい。なんとか自分の考えを若い人に伝えようと、がんばったのだろうなあと思う。三島の思想への入門書としてお薦めの本だ。
三島は盾の会で制服を作ったりしたのだけど、服装についてこんなことを述べている。

服装のほんとうの楽しみは、自由自在に勝手気ままなものを、好きな場合に着て歩くことではないということを、人々は経済状態の落着きと社会の安定とともに、徐々に学んできたように思われる。服装は、強いられるところに喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。これを最も端的にあらわすのが、軍人の軍服であるが、それと同時にタキシードひとつでも、それを着なければならないということから着るところに、まずその着方の巧拙、あるいは着こなしの上手下手があらわれる。(p.74)

私にはこの「強制」の美という点が、三島にとって重要なのではないかと思われる。思えば、三島は意志の人としばしば言われるように、自分の意志を徹底的に貫き通す人であった。それは日常生活にも及んでいて、つねに決まった時間に仕事を始めることは有名な話だし、三島自身も約束の時間は絶対に守らねばならないと言い続けている。三島は、自分自身をある状態に強制的に押し込めないと生きていけない人なのだろう。端から見ると、かなりつらい生き方なのではと思うが、三島自身はそれがきっと快楽だったのだ。
強制されること、これが重要なのは、いわゆる文化防衛論という考えに繋げることができると思うからだ。三島は、防衛する意志が必要なのだと主張する。では、何を守るのかといえば、天皇では弱い、守るのはわれわれの「文化」なのだ、と強く言う。なぜ「文化」なのか。

小説家にとっては今日書く一行が、テメエの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして今日書く一行がこもるかね。その一行に、自分の中の集合的無意識に連綿と続いてきた"文化"が体を通してあらわれ、定着する。その一行に自分が"成就"する。それが"創造"というものの、本当の意味だよ。未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。(p.136)

三島の「文化本質主義」的な考えがよくあらわているところだと思う。この点において、三島は批判されるのは当然なのだろう。それはともかく、三島自身、自分は「文化」というものに強制されていると思っていたのではないだろうか。三島のなかでは、私たちは「文化」を免れることはできないのだ。だから、どう振る舞おうと、何を書こうとそこに現れるのは「文化」そのものなのだ。「文化」と「私」を切り離すことなど絶対にできない。「文化」から切り離された「私」など考えられないのだ。
三島の創造行為にとって重要なのは、「強制」されることなのではないか。「文化」によって、否応なく「強制」される状態に置かれた時、はじめて小説の執筆が可能となるのだ。三島は何かに拘束されないと生きていけない人なのかもしれない。その時、その「何か」に三島は、たとえば「文化」やあるいは「天皇」というものを入れた。こうして三島は自分の創造行為を守ったのだ。こういう意味で、三島はマゾヒストであったと言えるのかもしれない。

若きサムライのために (文春文庫)

若きサムライのために (文春文庫)