固有名詞についてもっと勉強すること

高橋源一郎優雅で感傷的な日本野球河出書房新社
日本文学盛衰史』も読まねば、でもその前に、別の本を読んでおこうと思って図書館で借りる。
野球の小説かと思ったのだけど、うーん、いやたしかに野球の話は出てくる。でも、決して野球がモチーフの小説とは言えない。では、いったいこの小説は、何なのだ?と考えてみたけれど、さっぱり答えが見つからず。もし、私がこの小説でレポートを書かねばならなくなったら、かなり大変だろうなあ。ああ、そんなことは想像もしたくない…。
とはいえ、この小説がつまらない、駄作だとも思えない。実際、面白いなあと感じた。では、この私が感じた面白さって、何だろう?何をもって「おもしろい」と感じたのだろうか?
この辺をくわしく分析すればいいのだけど、ちょっと今はそんな気力が湧かない。正直、『優雅で感傷的な日本野球』は私の手には負えない。もっと正確に言うと、『優雅で感傷的な日本野球』のような小説を書いてしまう高橋源一郎は手に負えない。私には解釈するのが難しすぎる。(こんな風に、名詞を繰り返したりすると、高橋源一郎っぽい文体?かなあと)
ところで、『優雅で感傷的な日本野球』を読み終えた後、安部公房の『カンガルー・ノート』を読み始める。
こちらも前衛的な文学という点においては、高橋源一郎に負けず劣らずの作家だ。でも、まだ安部公房のほうが解釈は可能かもしれない。
『カンガルー・ノート』は、主人公の男の脛にかいわれ大根が生えてしまうというところから始まる。人間の身体と植物といえば、安部公房の初期作品「デンドロカガリヤ」を思い出す。かいわれ大根が生えた足を治療するために、ベッドにのって冒険をする、一言で言うとそんな小説だろうか。
この小説に限らないと思うのだけど、安部公房という作家は、人物描写とか風景描写がやけに具体的に思う。数字とか多様するし。しかし、いくら描写が具体的であったとしても、何かが決定的に欠けている。それは何か?固有名ではないだろうか。
私はそれほどたくさんの安部公房の作品を読んでいるわけではないので、あくまで印象論にすぎな不正確なものだけど、どうも登場人物に固有名が与えられることが少ないような印象を持っている。登場人物は、「男は〜だ」とか「女は〜をする」とか「子どもは〜した」というように語られる。語られる「男」の名前が述べられることが少ない。
それから、人物を比喩で表現したりもする。たとえば『カンガルー・ノート』では、主人公を何度か助ける看護婦の女は「トンボ眼鏡」を掛けているので、「トンボ眼鏡」と呼ばれる。この女の名前は語られていない。
どうして名前をつけないのだろう?と今日は一日そんなことを考えていた。いくら詳しく人物描写をしても、それに名前がないと、顔が欠けた人物のようで落ち着かない。人物の性質をかぎりなく挙げていっても、それらの性質がその人物そのものと置き換わることは絶対にできないだろう。言葉とモノとのズレ、なんてことが批評などで目にすることが、そんな感じだ。どうも安部公房という作家は、アイデンティティを固定してしまうことを常に回避しているように思うのだが、どうだろうか?
本当は、この安部公房の固有名詞と高橋源一郎の固有名詞を比較してみたかったのだけど、頭が働かない。思ったのは、源一郎作品に名詞というか言葉は、なにかを指しているわけではない。「掛布」や「バース」という名前が出たところで、現実の掛布とバースとそれが一体何か関係しているのだろうか?(でも、読者は「掛布」の名前に現実の掛布のイメージを重ねて読むのかもしれない。しかし、読者が全員、同じイメージを持っているわけではないのも注意しなくてはいけない。とすると、やはりこの名前は何も指していないのだろうか?)