『禁色』

三島由紀夫『禁色』新潮文庫、1988年2月(改版)
仮面の告白』に続いて「同性愛」が主題となっているこの小説を読む。本文を読んでみると、ところどころで「社会」や「世間」の目が現れるし、「多数決原理」の社会に対して主人公たちがマイナーな存在であることが強調されている。したがって、この小説を異性愛を「正常」とみなす「社会」や「世間」に対する「批判」あるいは「プロテスト」と読むのは妥当なところなのだろう。
文庫の解説の野口武彦は、しかし、男色を描いたという点からそれを「既存道徳に対する挑戦」とする評価だけでは、まだまだこの小説に対する評価が十分ではないと指摘している。これもまた重要な論点となるはずだ。
私自身、まだこの小説をどう読めばよいのか分からず、暗中模索状態なのだけど、そもそもこの中心人物となる「南悠一」とは何者なのか、ということが気になる。
この「女を愛することができない」と言い、同性愛者として少年と戯れる「悠一」は一方で、老小説家の檜俊輔の女性への「復讐」を担うドン・ファン的人物でもある。そして、そのようなドン・ファン的行為により、あらゆるベクトルが「悠一」に向かうことになる。みんな「悠一」を求めるのだが、その「悠一」には「精神」がないと言われている。いわば空虚な中心に力が集中していく。と、このように書くと思わず「天皇」?と小さな声で呟かずにいられないのだが、これも「三島由紀夫」という物語の罠なのだろうか。
この小説を読むと、フランスの心理小説みたいだなと思う。登場人物の心理をまるで「駒のように」動かしていると言われるレイモン・ラディゲのような小説を思いだす。
それから、小説の細部において気になるのが、「火事」という主題であろう。「悠一」の前に、頻繁におきる「火事」あるいは消防車の「サイレン」の音。火事すなわち火といえば、もちろん『金閣寺』の中心となるわけだが、三島の小説における「火事」「火」という主題は、ほかにもたくさん散種されているのではないだろうか。それは一つに「罪」の浄化という役割を担うのだろうが、ほかにどんな役割を持つのか。「火」についての記号論的解釈は可能だろう。

禁色 (新潮文庫)

禁色 (新潮文庫)