理解できない

「我々の使用している日本語は本質的にロジカルでないし、また対話も存在しない。あるのは空気を醸成するためのモノローグの集合だけだ*1」ということが分からない。「日本語」が「ロジカル」でない? 「日本語」に「対話」がない? 「日本語」が話したり書いたりするのだろうか。人が「日本語」を使って話したり書いたりすることはあるが、「日本語」それ自身が話しているところを見たことがない。また「日本語」が「日本語」の文章を書いている場面を見たことがない。興味があるので、「日本語」が「対話」をしている場面を見てみたい。
そんなことはともかく、たとえば司馬遼太郎の書く文章が「ロジカル」ではない、ということは理解できる。しかし、そのことと「日本語」が「ロジカル」でない主張がどのように結ぶつくのかが分からないのである。司馬遼太郎の書く文章が「ロジカル」でないのは、司馬遼太郎という書き手の問題であって、「日本語」それ自身の問題ではないのではないか。どうして、司馬遼太郎しかも、彼の小説をもってきて、それが「ロジカル」ではないと言い、そこから「日本語」が「ロジカル」でないということがどうやって証明できるのか。この論証こそ、非「ロジカル」だと言わざるを得ない。言葉使用者の問題を、「日本語」の問題であると結論づけるのは、おかしいのではないか。
それにしても、「日本語」が「ロジカル」でないという主張を、当の「日本語」で書くというのは面白い。そもそも「日本語」が非「ロジカル」なのだから、どのように書いたとしても、「日本語」を用いる以上、「日本語」は「ロジカル」ではないという考えを「ロジカル」に証明することは不可能だと思う。というわけで、「日本語」は「ロジカル」でないという意見は、「日本語」で書いている以上、非「ロジカル」な主張なのではないだろうか。

*1:「Rauru Blog ≫ Blog Archive ≫ 確かに、まず日本語ではあるが」より