石川淳『夷斎筆談 夷斎俚言』

石川淳『夷斎筆談 夷斎俚言』ちくま学芸文庫、1998年8月
前々から石川淳には興味を持っていたが、はじめてきちんと著作を読んでみた。この本は、評論というかエッセイ集といったところ。はじめは文体に慣れずに、少々読みにくかったが、だんだん慣れるにしたがって面白くなってくる。また、知識量にも驚く。江戸、中国、フランス、このあたりに通じている。
興味深いのは、フランスのポール・クローデルについて、たびたび言及していたことだ。フランス文学関係だと、ジッドやヴァレリーマラルメ、あとカミュなどにも言及しているのだが、クローデルだけはどこか親しみを込めて言及していた。クローデルが日本大使をしていたとき、山内義雄クローデルの詩を訳す会があり、その会に石川淳も参加しクローデルに会ったという。(p.175)そのせいなのか、クローデルだけは、「クローデルさん」と、さんづけで記しているのである。日本の小説家で、クローデルについて言及している人を見かけたことがなかったので、特に印象に残る。
この文庫に解説を書いている加藤弘一によると、石川淳を論じようとする者にとって「精神の運動」は「躓きの石」であるという。実際、この本を通読してすぐに気がつくのが、この「精神の運動」とりわけ「運動」という言葉なのである。したがって、石川淳を論じようとすれば、この「精神の運動」は避けて通れないのだが、どうしても論者は石川淳の自註を繰り返すばかりになってしまうと、加藤弘一は批判している。
そういうわけで、加藤は「精神の運動」について概念規定を行い、ここに朱子学がベースになっていることを指摘する。石川淳は、朱子学に骨の髄まで徹しているという。石川淳朱子学に悪態をつくのは、それだけ深く依拠していたからであろうと。石川淳の文学は、朱子学を内側から打ち破ることにあったのではないか、と加藤は見ている。
フランス文学であったり、朱子学であったり、石川淳のバックボーンを理解するのは大変なことだなと思う。研究するのが難しい作家の一人であろう。