星野智幸『最後の吐息』

星野智幸『最後の吐息』河出文庫、2005年11月
星野智幸のデビュー作である「最後の吐息」と、もうひとつ「紅茶時代」という作品が収録されている。
星野智幸の小説はどちらかといえば苦手なタイプで、一回読んだだけではなかなか理解できない。それで何度か読んでみて、ようやく何が書かれているのかぼんやりと見えてくる。「最後の吐息」も象徴的な表現が多いので、はじめは何の物語なのか理解できずに困ったが、堀江敏幸による解説(「蜜からミツへ、雨からジュビアへ」)を参照しながら読みかえしてみて、この小説は「書くこと」をテーマにした物語なのだろうと思う。「書くこと」というテーマは、「言葉」より正確にいえば「文字(活字)」のテーマとすぐに結びつく。この小説には「文字」が溢れていることに注意したい。実際、真楠は日本にいる恋人である「不乱子」あてに、この小説の作中小説となる「十一通の創作」を書き続けていること自体、二人の間には「文字」が溢れていることを示しているだろう。
冒頭の場面で「真楠」が「まだ読んだこともない作家が死んだ」とその作家の死を知るのは、「日本から送られてきた新聞の訃報記事」であり、真楠はその新聞の「日本語の活字」を強い陽射しのもとで眺めて「目眩」を起こしそうになる。続いて真楠は「チチチ」と鳴く「ハチドリ」の存在に気が付く。真楠はハチドリが甘い蜜を吸っている姿を好んでいる。このハチドリは、「スペイン語の新聞を読んでいると、必ず蜜を吸い」にやって来ると語られる。活字とハチドリが組み合わさっている。この組み合わせは、やがて「重力」を狂わせる。日本語の活字という「重力」とハチドリのように「重力」から解放されて自由に宙を舞う存在の間に、真楠は漂っていると言えるだろう。
真楠は「活字」になりたいという。それどころか、この「まだ読んだこともない作家」のペンを持つ手が書き付ける「名前」そのものになりたいという。「彼の手が持つペンの先から擦りつけられて名前が紙に現れるとき、名前となった真楠も揺るぎなく自分のいる場所を語ることができる」(p.15)と考えている。堀江敏幸が解説で指摘したように真楠は「変身願望」を持っているが、特に「活字」「名前」になりたいという願望が後の展開を考えると興味深い。
この小説では「文字(活字)」が非常に重要だ。「文字」は両義的な存在で、「文字」を媒介として、一方では人と人あるいは恋人同士を互いに引き寄せ「深く交わっているような甘美な思い」(p.20)をもたらすが、その一方で二人の間に「ズレ」があることを感じさせる。「ズレ」があると感じるから、この「ズレ」を解消するために「文字」を使ってコミュニケーションを行なう。だが「文字」は「ズレ」を生みだし続け、永遠に「ズレ」を解消することは不可能だろう。真楠の書く物語では、ミツが金細工の魚作りに没頭し、大量の金に鱗の模様を付ける(=「文字」を生むこと)が、最後に「活字」に身体を食い尽くされ、自分の「死」を悟るであろう。「文字」(エクリチュール)と「死」というテーマがここには流れている。
仲俣暁生は「雨季と乾季のバラッド――星野智幸論」(『新潮』2005年12月)のなかで「最後の吐息」に触れ、この小説が『アルカロイド・ラヴァーズ』に受け継がれる「「言葉」と「愛」をめぐるまわりくどい思考の跡を綴った物語」だという。この小説が「言葉」(私の言い方なら「文字」)と「愛」をめぐる思考であるのはその通りであると思うが、「不乱子が真楠に対して求めているのは、言葉という回りくどい回路を通り抜けたすえの愛情の表明であり、その真正性を担保するのは直截な物言いではなく、「周りくどい」手続きの遵守である」(p.209)と読むのはいかがなものか。
仲俣はつづけて「「読まず」に「嘆く」ことが批判されるべきなのは、それが回りくどさの回避であり、「努力」の「放棄」にほかならないからだ」というのだが、これでは不乱子はただ対話を続ける「努力」が大切で、それが「愛」だと言っているに過ぎなくなる。要するに、仲俣は「恋愛にはコミュニケーションが大切だ」と考えているようだが、「対話が足りない、愛情が薄いんじゃないの」と不乱子は真楠に不満をぶつけているわけではないだろう。この小説は、愛には対話が必要だという答えを提示しているわけではないし、まして対話を続ければ二人は理解しあえるのだということを描いているわけではない。
そもそも「言葉」ですらも私たちの「拠りどころ」にならないのかもしれないという危機感をもって、星野智幸(や他の現代作家たち)は出発しているのだと思う。そのような人が、「愛」の「真正性」の担保を「「言葉」の「周りくどい」手続きの遵守」に求めるとは思えない。仲俣が想定しているものよりも、現代文学はもう少し「複雑」なのではないか。
真楠がこの創作を書き始めるまで、不乱子が手紙を書き続けてきたことをこう説明している。「文字の上の交わりに変わってしまうのを拒否したいからでした。私は書くことで、あなたと私の間にずれていくことに敏感でいようとしたわけです。書くことで、文字に還元されることを乗り越えようとしたのです。」(p.88)ここで不乱子は、真楠との「ずれ」を敏感に感じようとしていることに注意すべきだ。仲俣は、この箇所を引用しながらも読み落としている。不乱子は、真楠をあくまで他者として維持しようとしているのだ。
それに対し、真楠は「違和感」とともに「淫靡な快感」を思い出し、「いま一度、文字を通じながら文字にならない不乱子まで含めて、不乱子そのものになりたい、あの作家の名前になることで本当は不乱子になりたい、と強く思い、最後の手紙」(p.88-89)を書き始めている。真楠は、このように文字を通じて「不乱子そのもの」になろうとするが、おそらくこれは不可能な試みなのだ。真楠にとって、「書くこと」は文字を通じて他者との一体化を望むことである。そして、それは不可能であるがゆえに書き続けなければならないが、真楠にとってはそれが「淫靡な快感」となるだろう。この小説は「書くこと」のエロチシズム描いた物語なのではないだろうか。

最後の吐息 (河出文庫)

最後の吐息 (河出文庫)