日本語の問題なのか?

石川忠司の『現代小説のレッスン』(ISBN:406149791X)は現代小説の優れた批評で、参考になることが多い本である。ところで、最近この本を読んでいて気になることがあった。
それは、阿部和重について論じている箇所である。そこで、石川は阿部の小説に出て来る人物たちの特徴を「どこかしらわれわれの「日本」の運命それ自体を思わせはしないか(p.160)」と指摘している。そして、中国学者加地伸行を参照しながら、日本語は「ペラい」すなわち「日本語とは恐ろしく表層的な言語にほかなならない」ことを説明する。
日本語は「ペラい」――この「ペラさ」を克服するために「われわれは助詞やら助動詞やらをさかんに活用して、さらにペラい言葉をトートロジカルに力んで重ねざるを得ず……って、これではまるで阿部和重じゃないか(p.161)」と、このように石川は阿部の文体の特徴すなわち「阿部特有の言葉の「貧困さ」、文体の無駄に「力み」返った」感じを、日本語の「ペラさ」に求めた。
この説明も一理あると思う。まちがいではないと思うが、気になるのはこの「ペラさ」が日本語による文学(小説)の特有の問題なのであろうか?。たとえば、三島由紀夫が『小説家の休暇』や『文章読本』のなかで繰り返し言及していることだが、バルザックは「原稿用紙四枚!」にわたる人物描写をしてしまう。プルーストでも、延々と文章が続いていくわけだ。そして、このようなフランス語をそのまま日本語に移して批評言語を作り出したのが蓮實重彦で、その文体を受け継いだのが阿部和重だとしたら……。つまり日本語ではなく、フランス語のほうが「ペラい」のかもしれないと考えることもできるのではないか。それとも言語、各国語の性質というより、「小説」というジャンルの性質によるものなのだろうか。そうなると、石川の説明はまだ問題の半面しかできていないのかもしれない。このあたりの問題を、石川の説を受けて、誰か発展させてくれる人はいないのかなと思う。「小説」とは何かを考えるとき、けっこう重要な問題になるのではないだろうか。