山崎貴『ALWAYS 三丁目の夕日』

◆『ALWAYS 三丁目の夕日』監督:山崎貴/2005年/日本/133分
原作のコミックについてはまったく知らないのだけど、映画はなかなか面白かった。この映画にノスタルジーを感じるとすれば、やはり人々がまだ「意欲」を持っていたということに対してだろう。人々の「意欲」は、建設中の東京タワーに象徴されている。上へ上へ行くことができると、人々は信じることができた時代だったのだ。これはある意味、フィクションの力を信じることができた時代でもあったと言えるだろう。たとえば、居酒屋の「ヒロミ」が「茶川」の送ったいつか買うであろう「指輪」の存在を信じているように。もし、この指輪を渡す場面が感動的であるとするならば、私たちの時代はもう「フィクションを信じる」ということが失われており、それがノスタルジーの対象となってしまうということだろう。フィクションを信じられた時代が懐かしいと。
フィクションといえば、この映画の物語では、疑似家族というテーマが中心となっていることも注目できよう。「鈴木オート」には集団就職でやってきた「六ちゃん」があたかも家族の一員のようになるし、母親に逃げられ一人になった「淳之介」が駄菓子屋の「茶川」のところにやってきて、ここでも疑似家族の物語が成立してしまう。茶川が何度も淳之介に口にするのは、「お前は赤の他人なんだ」ということだった。事あるごとに「他人」であることを確認する茶川と淳之介の関係は、まるで本当の家族のように密になったとしても、その関係はフィクションでしかないことを示している。しかし、フィクションであるからといって、二人はその関係を放棄することはない。むしろもフィクションであるがゆえに、その関係は一層強化されていくようである。血の繋がった家族よりも、赤の他人同士である虚構的な家族関係を二人は最終的に選ぶであろう。
それにしても、この映画のラストは私たちにとっては酷ではないだろうか。たしかに夕日は美しい。だが、同時にこの場面は「意欲」の時代、フィクションを信じることができた時代の黄昏でもあるだろう。夕日と一緒に目にするのは完成した東京タワーなのである。東京タワーの完成後に生きる私たちは、「意欲」も「フィクションを信じる力」も失ってしまった。夕日と東京タワーは、その事実を私たちに厳然と指し示しているかのようである。