本日の感想

京都の「大文字」すなわち「五山の送り火」について気になったので、とりあえずWikipediaで調べてみる。しかし、結局その起源がよく分からなかった。グーグルで検索してみても、どうやら起源に関してはいくつか説がありそうだ。
ところで、「五山の送り火」のことが気になったのは、「jkondoの日記」(2005-11-30)を読んだからだ。そこには、他の方の文章が引用してある。その引用文の内容が気になって仕方がない。引用文の内容は、以前京大生が「大文字」を「犬」に変えてしまった件についてである。いたずらで「犬」に変えたことに対して、地元の老人たちが激怒したことに触れ「しかし、考えてください、もともと山に大という文字を書こうと、最初にはじめた人は、こういうことをすれば、みんなが面白がって楽しんでくれるだろう、というイタズラ心ではじめたと思うのです」という。この一文が気になって、起源を調べてみたのだ。本当に最初に始めた人は人々をびっくりさせようという「イタズラ心」で始めたのかなと。
結局、今となっては分からないことだし、確かめようもないことなので、これ以上は何も言えない。引用文は、続けて「それが長い歴史の中でスタイルだけが伝統文化として残った。でも、最初に大文字焼きをはじめた人の心をちゃんと踏襲しているのは、スタイルを守る人ではなく、犬とか太とか書いた学生たちなのではないでしょうか」と述べている。それに対し、近藤氏は「これは本当にその通りだなあと思います。ぜひこういう遊び心を失わずにものづくりを続けたいものです」と結んでいる。もの作りの精神を述べた意見として、この近藤氏の言葉に異存は全くない。つまり「遊び心」が新しい発想を生むという意見はたしかにその通りだと思う。ただそのことを述べるためにここで「五山の送り火」を持ち出したのは良くなかったのではないだろうか。次元の違う問題を組み合わせてしまうと、いらぬ誤解を生んでしまうのではないか。
また、引用文の内容に関して言うと、私は「犬」と変えられて、激怒した地元の方々の気持も尊重すべきだと思う。これは、以前報道された女人禁制の山への女性の登山という問題とも重なる。もしかすると、引用文の筆者の方がおっしゃるように、送り火も「イタズラ心」で始まったのかもしれない。しかし、それが今現在では別の意味が加わって、この行事を「お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる」と信じて続けている人もいるのだ。したがって、「イタズラ心」で始まったものかもしれないからと言って、その信心を無視することはできない。