阿部和重『プラスティック・ソウル』

阿部和重『プラスティック・ソウル』講談社、2006年3月
本作は、1998年から2000年にかけて『批評空間』で連載されたものである。また、付録として福永信の「『プラスティック・ソウル』リサイクル」という評論が収録されている。この福永信による批評は、本文よりも注釈のほうが詳細という、ちょっと不思議な批評なのだが、本作を詳細に分析しており、非常に参考になる。
『プラスティック・ソウル』は、阿部和重らしい作品と言えそうで、特にデビュー作の『アメリカの夜』や『インディヴィジュアル・プロジェクション』に通じる作品である。つまり、分裂した語りが特徴となっている。分裂する語り手については、福永の分析に詳しいが、ここでの特徴は、主人公の「アシダイチロウ」を中心に三人称で語る語り手がまず一人いて、しかしこの語り手は「私」と称して物語世界に介入してくる。つまり、「アシダイチロウ」=「私」となっていて、「私」は「アシダイチロウ」について語りつつ、ふいに「私」の一人称の語りが現れる。さらに、驚くべきことに、2章に入ると「わたし」という語り手までも現れる。漢字の「私」とひらがなの「わたし」は、作者のタイプミスではなく、もちろん別人物で、「アシダイチロウ」と一緒に行動することもあるので、どうやらこの人物は、「アシダイチロウ」の彼女である「ヤマモトフジコ」らしい。三人称の語る語り手と「私」の一人称と「わたし」の一人称という3つの語りの主体が、入れ替わり立ち替わり登場する。福永によると、この主体の入れ替わりは43回にもなるという。
この語り手の変化が非常に面白い小説なのだ。そもそも、物語は最後まではっきりしないままで終わってしまう。謎らしきものがいくつか登場するのだが、結局その謎は解かれることはない。いや、それは本当に謎だったのだろうか、もしかすると「アシダイチロウ」によるただの妄想にすぎなかったのかもしれない。本作は、語りの方法に重点が置かれていたと言えるわけだが、阿部の言葉によると、「「プラスティック・ソウル」のような、ずれてゆく過程みたいなものに僕はもう快楽を感じられなくなってしまった。むしろ物語の世界像が前景化してゆく中で方法的な面は奥に隠れている、ということのほうが面白いんじゃないか」(p.191)と思い、それを実践したのが『シンセミア』ということになる。本作は、阿部和重の大きな転換点となった重要な作品であると言えよう。
ところで、先頃第3回本屋大賞が発表され、今回の受賞作はリリー・フランキー『東京タワー』だった。最近、東京タワーが小説や映画の主題となっており、時代や社会を象徴するものとして、物語を生みだしている。『プラスティック・ソウル』でも東京タワーが語られていることに注意しよう。阿部和重の描く東京タワーはとんでもない代物だ。「私」によれば、東京タワーは皇居とワンセットであり、これらは二つで一つだという。そして東京タワーは本当はものすごい長さをしていて、東京にミサイルが飛んでくると、ぐんぐんと伸び始める。それに反応して皇居には巨大な穴が現れ、ものすごい長さになった東京タワーが皇居に向かって折れ曲がり、ついには皇居の中心の穴に東京タワーの尖端が突入していく。――
この作品も「不敬文学」の一つなのだろうか。

プラスティック・ソウル

プラスティック・ソウル