山田太一『岸辺のアルバム』

山田太一岸辺のアルバム』角川文庫、1982年6月
戦後の大衆文学というよりテレビドラマのほうで有名な作品だろうか。「家族」の崩壊というテーマから、文学研究よりも社会学のほうで言及されることが多かった作品だと思う。タイトルだけはよく聞いていたが、これまで読んだことがなかったし、テレビも見たことがなかった。読み始めていると、けっこう面白い。
物語は、多摩川に住む田島一家が中心となる。仕事一筋で、家庭を妻に任せっきりの夫謙作。生活には不自由はないし、夫も愛しているが、何か心に隙間を抱えている専業主婦の則子。息子で、大学受験に失敗する繁。美人で頭がよいが、家族とは距離を置いている繁の姉律子。田島家はこの4人家族である。
多摩川が舞台の小説ということで、この前に読んだ川端康成の『女であること』を思い出した。『女であること』の夫婦も、『岸辺のアルバム』の夫婦に似ている。『女であること』の妻の市子は、もしかすると浮気をしていてもおかしくはない状況ではあった。両作品とも、妻でも母でもなく、あらために自分が「女」であることに気づいてしまう、あるいは気づかされてしまうという点が共通しているのかもしれない。
さて、この物語のクライマックスは多摩川の氾濫であり、それによって田島の家が流されてしまう場面なのだが、この場面は興味深い。

 台風は温帯低気圧となって消え、おだやかな九月の青空の下で、濁流だけが勢いを落とさず、二日間次々と家をのみ込んで行くのは異様な眺めであった。(p.455)

この風景は、この家族の物語を見事に象徴している。一見すると何もない、穏やかな家族であったが、見えないところで次々に崩壊していき、やがては全体がバラバラになってしまう。しかも重要なのは、台風という嵐が去った後に、時間差をおいて家が崩壊していること。決定的な出来事が起きても、すぐにはそれが表面に出てこない。だから、自分たちが危ない状態なのかどうか分らない。分ったときには、もう崩壊しているのだ。田島家とは、そういう家族だと言えるのではないか。
息子の繁は、探偵のように、家族の秘密を探り明らかにしていく。母が浮気していたこと、姉がレイプされ中絶したこと、父が解剖実習用の死体の取引をしていたこと...etc。繁は、たとえば漱石の『彼岸過迄』の敬太郎のように、ややロマンチックな性格をしている。というのも、繁は家族がそれぞれ秘密を抱えていて、そのことを指摘しても、この家族は何も起きないのだ。妻が浮気していたことを知っても、夫がそのことのよって妻を激しく問いつめない。普段の生活がなされていく。家族にとって重要な出来事なのに、繁以外の人間は誰もその出来事を直視しようとしない。少なくとも繁は、そのような家族に激しく苛立ちを覚える。「わが家は一体なんだ? なにがあったってなんにもないのと同じじゃないか!」(p.309)。そして、繁は家族を「ロボット」だと、だから人間らしい感情がないのだと叫ぶ。
妻が浮気をしても、娘がレイプされても、一向に劇的なドラマが起きない。繁の位置は、テレビの視聴者に近いのかも知れない。劇的な展開が期待される出来事があるのに、物語は淡々と進行している。繁に感情移入する視聴者なかには、このドラマは他の家族ドラマとは違うなと感じたのではないだろうか。おそらく、『岸辺のアルバム』の特徴はここにあると思う。通常なら、ドロドロの展開が予想される妻の浮気という出来事があるのに、そのような展開にならない。劇的になりそうな場面をあえて劇的にしない。この戦略が当時は新鮮だったのではないだろうか。『岸辺のアルバム』は、従来のホームドラマをパロディ化しているとも言えそうだ。
とは言っても、最後の多摩川の氾濫という最大のドラマ、劇的展開が待っているのだが。家族の崩壊と言っても、妻の浮気やら父の仕事の失敗といったレベルの話ではないのだ。家族を(経済的*1にも精神的な意味においても)支える「家」が、疲弊してしまっていること、したがって「家」という家族にとって根本的な土台を一旦破壊し、そのうえでもう一度「家」や「家族」を作り直さねばならないということを、ラストシーンは表しているのではないだろうか。

岸辺のアルバム (角川文庫)

岸辺のアルバム (角川文庫)

*1:自分の浮気が夫の経済力=「家」に支えられていることを、則子が気が付く場面は、興味深い。