ジル・ドゥルーズ『マゾッホとサド』

ジル・ドゥルーズ蓮實重彦訳)『マゾッホとサド』晶文社、1973年7月
マゾッホとサドの二人について、というよりマゾッホについての本だった。ここでドゥルーズが批判しているのは、「サド=マゾヒスム」という一つの単位であり、この単位は錯覚にすぎないということを、ひたすら論証していく。「サド=マゾヒスム」とは、「誤って捏造された一つ」であり「記号論的な怪物」なのだと結論している。
マゾヒスムを、あたかもサディスムの補完物のように考えるのがまずい。ドゥルーズは、「マゾッホを読むといっても、マゾヒスムがサディスムへと通じることを当然であるかに考えて、サディスムがはっきりマゾヒスムへと転ずる契機となる一種の証拠、あるいは検証、つまりは単なるサドの補足物をそこに読むのは、これまた決して正しいこと」(p.162)とは言えないと指摘する。事実、サドの天才とマゾッホの天才は、まったく異質で、二人は通底などしていないのだから――。
短い本なのでそれほど時間が掛からずに読めるし、内容も面白い。特に、「法、ユーモア、そしてイロニー」という章が、興味深い。「イロニーとユーモアとが現実に遂行され、その意味をみいだすのは法との関係」であるとし、イロニーとユーモアを次のように定義する。

イロニーとは、無限の上位に位いする<善>を基盤として、あえて法を設定せんとする思考の戯れである。ユーモアとは、無限に正義の側にある<最良>によって法を批准せんとする思考の戯れなのだ。(p.104)

ここから、マゾッホのユーモアが説明される。マゾッホ的ユーモアとは何か。

すなわち、かりに違犯するなら当然の帰結としての懲罰をこうむるだろうという危険によって欲望の実現を禁じるその法が、いまやまず懲罰を加え、その帰結として欲望の充足を命ずる法となってしまっているのだ。(p.112)

これはたしかに面白い。訳者の解説の言葉を借りると、「ここにあるのは、宙吊りによる法の否認であり、いわば絶句による饒舌の廃棄である。そのとき、法は法として無疵で残り、その効力を及ぼしつづけながら、まさにその効力に身をさらすことによって、法を覆されるという現代のユーモアが、マゾヒストによって逆説的に生きられることになる」(p.212)ということだ。マゾヒスムとは、法を内側から骨抜きしていく方法なのだ。こういう方法を身につけたいと、ずっと考えていたので、この章に強く惹かれた。ここにあるマゾヒストの快楽は、ドゥルーズ→蓮實ラインの思想の特徴ともいえる方法だと思う。よく覚えておきたい。

マゾッホとサド (晶文社クラシックス)

マゾッホとサド (晶文社クラシックス)