言葉がもたらす驚きに敏感でありたい
最初の読者として初稿を読み直して見た著者をとらえたものは、意図されたわけではない一貫性が維持されていることへの驚きである。その一貫性は、樋口一葉から阿部和重にいたるまでの作家たちの言葉が、それぞれ異なる水準ではあるが、著者の心をしたたかにとらえたものばかりだという事実から来ている。「心をとらえる」とは、方法で処理しきれない事態に直面した者の戸惑いが書く主体を深く揺るがせていたことを意味する。(p.249)
これは、先日読んだ蓮實重彦『魅せられて』(ISBN:4309017185)のあとがきの一節である。私は自分でも恥ずかしいと思うぐらい蓮實贔屓なので、蓮實批評をやや理想化してしまいがちだが、それを差し引いても、この文章は文学や映画を語る際に重要なことだと思う。
別にこれは文学というのは「論理」を超えている、だから「論理的」に語れないということを述べているのではない。私が引かれるのは、ある作品を読んだり見たりして、それについて分析し論じようとする際、自分の想定外の言葉や、あるいは自分のなかでは自明だと信じていたことを揺るがすような言葉に出会ったときの衝撃が、文学について書く動機になっているという点なのだ。
文学研究の場で、はたしてどれぐらいの人が、理論や方法では処理しきれない言葉や表現のもたらす衝撃や戸惑いを真摯に受けとめようと努力しているか。最近、方法や理論内で要領良く処理してしまう院生が多くないか。こうした論文はたしかにスマートで、よく勉強しているなと感じるが、どこか物足りない。テクニックを身につければ論文は書けると言われるが、まさに技術のみで書かれた論文や研究発表が目に付く。こうした人々の戸惑いとは、せいぜい論文がうまくまとめられないという技術的な点だけだ。しかし、研究における戸惑いとは、そういうレベルのものではないと思う。
小説を読んだり、映画を見た後で、「あれ、どうもおかしな表現だな」と思うことがある。そして、その印象をなんとか説明してみたい衝動に私は駆られる。こういう衝動が研究する際にも重要だと思う。私は、常にこの驚きや戸惑いから出発したい。自分が用いる方法や理論を、根底から揺るがすような言葉に出会ったときの驚き、この驚きを大切にしたいと思う。