三島由紀夫『ラディゲの死』

三島由紀夫『ラディゲの死』新潮文庫、1980年12月
ラディゲはフランスの作家だ。三島がこの夭折の作家に非常に憧れていたのは有名な話である。私もラディゲが好きだ。文学の研究をしようと決心したのもラディゲが原因だったし。ラディゲを読んでいなかったら、文学など研究することはなかっただろう。なにしろ、ラディゲを読むまでは、本などまったく読まなかったのだから。
だから青春時代あるいは10代でラディゲに出会うことは危険なことなのである。10代の人間には、ラディゲは毒である。読んだら最後、もうその世界から抜け出すことはできないだろう。もう人生に未来などないと思った方がよい。10代でラディゲなど読んではいけない。「死」の覚悟がないかぎり、ラディゲに触れるのは危険だ。文学とは「死」そのものなのである。
したがって、夭折しなかった私は、けっきょく「文学」に触れることは一生ないだろうと思う。「文学」に触れていれば、生きてなどいられないはずだから、といつも思う。
話が逸れてしまった。三島は、ラディゲの死をコクトーを通して描いた。ラディゲになれなかったかわりに、せいぜいラディゲの死を書くしかない。夭折できなかった者の悲しい作品である。それを読む私は、もっと卑小な人間でしかないのだが…。
この短篇集には、三島の10代のころから31歳までの作品が入っている。10代で書いた「みのもの月」などは、谷崎風の小説だけど、まだまだ幼い印象。よく書けていると思うが、第一あまり面白くない物語だ。
気になるのは、「首」を主題にした短篇が二つあること。一つは「山羊の首」。もう一つは「日曜日」である。
「日曜日」は、同じ役所に勤める恋人二人が、日曜日ごとにデートをする話。だが、ある日のデートで混雑している駅のホームで押され線路に落ちてしまう。そこで起きた荒唐無稽な悲劇。

 腕を組んでいたので、一人で死ぬことは困難であった。幸男が顛落し、斜めに秀子が引きずられて落ちた。ここでもまた何らかの恩寵が作用して、列車の車輪は、うまく並べられた二人の頸を正確に轢いた。そこで惨事におどろいて車輪が後退をはじめると、恋人同士の首が砂利の上にきれいに並んでいた。みんなはこの手品に感服し、運転手のふしぎな腕前を讃美したい気持になった。(p.135)

こんなことがあるわけがない。こういう馬鹿げたことをさらりと書いてしまう三島が面白い。
「山羊の首」は、女たらしの話。この女たらしが、戦争中に田舎娘を口説いていたとき、たまたま切られた山羊の首を見つけてしまう。それ以来、あらゆるところにこの山羊の首が現れて、山羊の目に見つめられているように感じてしまう男が登場する。これなんて、『金閣寺』みたいだ。たしか『金閣寺』でも、主人公が女と寝ようとすると、金閣寺が現れてダメになってしまうのではなかったか。何かに取り憑かれてしまう男というのも三島的モチーフなのかもしれない。

ラディゲの死 (新潮文庫 (み-3-29))

ラディゲの死 (新潮文庫 (み-3-29))