成瀬巳喜男『乱れ雲』

◆『乱れ雲』監督:成瀬巳喜男/1967年/東宝/カラー/108分
この映画も日本の映画史に残る名作。『乱れる』と『乱れ雲』は、成瀬の晩年の作品のなかでも特に素晴らしい作品。成瀬の作品で、なにはともあれ見ておかねばならない作品を挙げるなら、『浮雲』と『乱れる』と『乱れ雲』の3本になると私は思う。この3本を見ずに、成瀬を語ることはできない。『乱れる』乱れ雲』(もちろん、他の作品も含む)を見たら、蓮實重彦が言うように、成瀬は『浮雲』だけじゃないのだなと強く感じた。
今では、成瀬は世界中の映画監督から注目されていると言われる。成瀬特集のちらしを見ていると、たとえばウォン・カーウァイも成瀬をリスペクトしているらしい。『乱れる』と『乱れ雲』を見ていたら、ウォン・カーウァイは、たしかに成瀬をリスペクトしているのだろうと感じた。成瀬のメロドラマをきちんと継承しているのは、ウォン・カーウァイなのではないか。ウォン・カーウァイの作品を思い出してみると、成瀬の作品と共通するところがある。主人公たちが、移動を繰り返さざるを得ない状況であったり、「歩く」ことや「雨」、「階段」という主題の共通性もある。私の思い込みかもしれないが、たとえばウォン・カーウァイの『欲望の翼』あたりは、成瀬映画の雰囲気が良く出ていると思う。(あと『花様年華』あたりもそうなるだろうか。)
ともかく、『乱れ雲』は傑作であることは間違いない。司葉子加山雄三が主演している。加山雄三が、司葉子の夫を交通事故で死なせてしまったことから、二人の運命が変わる。はじめは、加山を避けていた司も、徐々に彼を受け入れ始める。そして、それが許されざる恋愛へと高まっていく。二人は惹かれあっていても、過去の出来事が、二人を引き裂き、永遠に結ばれることはないだろう。最後に加山は、まるで罰を受けるように、ラホール(映画中では、コレラ発祥の地とも言われ、政情不安から誰もが行きたがらない地)への転勤を命ぜられ、司を十和田湖に残して旅立っていく――。
『乱れる』の列車内の場面と同様に、この『乱れ雲』では加山と司の最後の逢瀬に向かうタクシーでの移動場面がすばらしい。加山が、ラホールへ向けて出発する日、司は十和田湖で心中事件を目撃している。その後、司は加山に会いに行き、二人はとある旅館へと最後の逢瀬に向かうのだが、その道中で二人は様々な不吉なイメージに出会うことになる。
たとえば、踏切のカンカンとなるいらだたしい音。警報機には、注意の文字が書かれてある。それから、タクシーの運転手のまなざしに、司は動揺する。その後、道中で交通事故を目撃する。旅館に着くと、けが人が救急車で運ばれていく場面がある。これだけ執拗に不吉なイメージを挿入するのは、二人が禁じられた関係であること、あるいは、それが罪であることを示すためなのだろう。映像は、おそらく二人がそれ以上先に進むことに、警告を与えているのだ。
だが、二人は執拗な警告にもかかわらず、最後の逢瀬に突き進む。越えてはいけないラインを、次々と越えて、最後の逢瀬にたどり着く。が、しかし、これだけの不吉なイメージを見せられてしまった以上、何もかも捨てて、二人で逃げるようにラホールに行くことは出来ないだろう。そんな行為をすれば、「死」以外に残されるものはない。結局、二人は別れるしかないのだろう。このあたり、『浮雲』の二人が逃げて逃げて、南の屋久島まで行き結局そこで死んでしまうのとは異なる。
乱れ雲』には、山のなかで司と加山が戯れる場面がある。光が差し込む木々に囲まれた場所で、男女が戯れるのは、戦前の成瀬映画から受け継がれてきたものだ。『鶴八鶴次郎』におけるプロポーズの場面、『歌行燈』における舞を伝授する場面などは、誰もがその美しさを称えている。それから『浮雲』では、南方の場面でやはり森の中で男女が接近することになるだろう。『乱れ雲』は、成瀬の最後の作品になってしまったのだが、最後まで成瀬らしさを失わなっていないところに感動してしまう。