成瀬巳喜男『ひき逃げ』
◆『ひき逃げ』監督:成瀬巳喜男/1966年/東宝/128分
脚本は松山善三。やはり松山善三のシナリオはイマイチだなと感じる。高峰秀子が狂気を演じる場面などすばらしく、映画全体の出来は良いのだが、どうも物語の展開に納得がいかない。
物語は、高峰秀子が夫を亡くし、小さい息子と二人で暮している。ある日、遊んでいた息子が自動車事故に遭い、死んでしまう。その自動車を運転していたのは、司葉子で、彼女はエンジンを製造する会社の専務の妻なのだが、若い男性と不倫の関係にあった。事故は、男性との密会の帰りの出来事だった。事故の発覚を恐れた司葉子は、轢いてしまった男の子を置いて、逃げてしまった。
息子を亡くした高峰秀子は、加害者に復讐を誓う。事故の時、車を運転していたのが司葉子であることを偶然知り、家政婦としてその家に住み込む。一方、司葉子のほうは、事故のことを悔やみつつ、若い男性との関係もうまく行かなくなり悩む。こうして、二人の女性の心理の動きを丁寧に描き出す。このあたりは、『女の中にいる他人』の小林桂樹や新珠三千代に似ている。
結局、行き詰まった司葉子のほうは、息子と自殺してしまう。だが、なぜか家政婦の高峰秀子が殺人の疑いをかけられ、警察で厳しい取り調べ受ける。その過程で、精神を病んだ高峰秀子は、無罪となって釈放されても、廃人のようになってしまう。そして、交通事故がトラウマになった彼女は、横断歩道に立ち、小さい子どもを見ると、みどりのおばさんのように、子どもの手を取り横断歩道を安全に渡らせることを繰り返す――。
精神を病んだ高峰秀子が、取り憑かれたように横断歩道で子どもの手を引く姿は見事なものだった。ここだけ見ていたら、実はこの映画の真の物語は、「みどりのおばさん」の誕生秘話という物語だったのではないかと思ってしまう。要するに、子どもたちの安全を守る「みどりのおばさん」には、衝撃的な過去が!という映画なのだ。
それにしても、腑に落ちないのは、高峰秀子がすぐに殺人事件の容疑者としてつかまってしまうことだ。普通の物語ならば、青酸カリを飲んで死んでいたとなれば、自殺を疑うのではないか。なぜか、警察は自殺の線を調べようとしない。たまたま遺書があったので無罪となるのだが、この映画の警察は無能なのではと思うぐらい冤罪を作っている。このへんで、松山善三のシナリオはリアリティを欠く。このリアリティの無さは、危うく物語をつまらないものにしてしまうところだったと思う。
この作品を見ていくつが気が付いた点を挙げてみる。一つは「橋」の主題。成瀬の映画は「橋」の映像も印象に残る。たとえば、『秋立ちぬ』で少年と少女が出会うの橋の上であった。『ひき逃げ』でも橋が登場する。高峰秀子が家政婦として、司葉子の息子を幼稚園に送っていく途中のことだ。橋を歩いていると、高峰秀子はふと立ち止まり、下を見る。そして、この息子を橋から投げ落とす妄想を抱いてしまう。「橋」がきっかけとなり、「復讐」という深層心理をイメージとして提示する。これは、『女の中にいる他人』と同様の使い方で、『女の中にいる他人』では温泉療養に出かけた小林桂樹が、吊り橋から落ちて死んだ人間を見ている。ここでも吊り橋の映像が強く印象に残るのだが、それが「死」に結びついて、その「死」は小林桂樹に取り憑くことになるのだから、深層心理を橋が浮かび上がらせているという点で、『ひき逃げ』の陸橋と似ていると言えるだろう。成瀬の映画では、「階段」と同様に「橋」の使い方にも注意しなければならない。
それから、もう一つ、前から気になっていたことだが、成瀬の映画には「煙草を吸う女」が多いということだ。戦前の映画だと、煙管を吸っている女性もいて、粋な感じがするのだが、ともかく女たちは煙草を吸うことに注意したほうが良いのだろう。『ひき逃げ』でも、高峰秀子が煙草を吸っていた。女たちは、煙草を吸うことで、ほんのひとときだけ自由になっているように思える。生活がにっちもさっちもうまくいかなくなったとき、女たちは煙草を取り出してマッチで火をつける。それだけが、今の苦しみから逃れる方法だと言わんばかりに。