宮崎駿『ハウルの動く城』

◆『ハウルの動く城』監督:宮崎駿/2004年/日本/119分
ひさしぶりに宮崎駿の映画を見た。良いのか悪いのか、すごく微妙な映画。中途半端な物語だったなという印象は受けた。物語の後半がいまいいち分かりにくいのだ。戦争の原因が分かりにくい、ハウルが何のために戦っているのか分からないけど、そういう大きな世界がある。それと同時に非常に個人的な世界(ハウルとソフィーの恋愛)が重なっているのは、この映画もセカイ系の一つなのだろう。
それから悪魔との契約というモチーフは、もとの物語がイギリスの児童文学だというのだから、やはり「ファウスト」の伝統を受け継いでいるのだろう。しかし、ハウルの姿を見ていると「デビルマン」を思い出してしまった。ハウルデビルマンだなと。物語内のポジション的にはハウルデビルマンと同じだと思った。
さらに「動く城」について。これはもう指摘があるのかもしれないけど、反復を恐れずに言えば、やっぱりこの城は「おたく」の比喩なのだろう。がらくたの集積のような城は、カルシファーハウルの「心」によって統一されている。カルシファーがこの城を出ると、ほんとに簡単に城が崩れてしまう。
でも、この城をというかハウルの「心」を認め、さらには全力で守るのがソフィーだ。とするなら、ソフィーは「おたく」の心を擁護する守護天使なのだろうか。
荒地の魔女の身体に代表されるように、この映画にはなぜか「ぶよぶよ」とした液体状のものがよく現れている。これは一体なんなのだろう?荒地の魔女の手下もぶよぶよした液体状だし、ハウルやソフィーをおそってくるものたちも液体状のもの。ハウルも髪の色が変わってしまい落ち込んだとき、スライム状になってしまうし、戦闘から帰ってきたときにスライムのような液体を床の残している。荒地の魔女が王宮の階段を上った時にひどく汗をかくが、この時の汗も妙に大粒な水滴になっていなかったか。ソフィーが流す涙も、大粒な水滴でまん丸な塊のような涙を流している。映画全体が、こうした「ぶよぶよ」とした液体状のものに覆われているといってもよい。
それに対し、ソフィーの着ている服が風によってひらひらと揺れる場面があり、このゆらめきはけっこう印象に残る。つまり、「粘着状のもの」とひらひらと揺れるものに代表される「軽やかなもの」(ここにはハウルの飛行も含まれるかもしれない)の対立が、この映画の構造だと言えるのではないか。そして、物語は「軽やかなもの」の勝利で終ったと思う。この二項対立は何を意味をするのだろうか。