宝塚映画祭映像コンクール

今年も宝塚映画祭が昨日から始まった。きょうは映画祭のイベントの一つである映像コンクールがあり、応募作から選ばれた10本が上映された。
普段、私はアマチュアの方々の作品を見ることはないので、今の若い人たちがどのような映画を作っているのかが気になり、それを知る良い機会だと思って、朝から夕方まで全作品を見てきた。
どの作品も予想していたよりもしっかり仕上がっていて、「これはひどい」なんていう作品は一つもなかった。今はデジタル技術のおかげで、アマチュアでもそこそこの映像が撮れることも知った。とはいえ、やはり一方で普段見ている商業映画とは雲泥の差があるなと(当然か)、残酷なまでにプロとアマチュアの作品の質の差を強く感じた。
気になったことをいくつか書いてみる。一つは、大方の作品が「冗長」であったということ。上映された作品は、長いものでも1時間ほどで、この上映時間は普通の商業映画に比べたら断然短い。それにもかかわらず、作品の途中で「長い作品だな、まだ終わらないのか」ということを感じることが多かった。要するに、無駄なショットが多いのだと思う。大胆な編集というものが必要なのではないか。私が良い作品だと感じたものは、どれも10分ほどの上映時間の作品だった。物語をいかに語るのか、ということをもっと意識しないといけない。
二つ目は、いくつかの物語に共通していたのが、いわゆる「メンヘル系」「不思議ちゃん」と言えそうな少女がヒロインとなっていたことだった。突飛な言動をする少女に、男性たちが振り回される――そんな物語がいくつかあった。これは少し安易であると思う。不思議な少女を登場させれば面白い物語になるのではないか、という考えは甘いと言わざるを得ない。別にこういう性格の登場人物を描くのが悪いとは言わないが、ただそれだけでは陳腐な物語でしかないことは意識したほうがいい。意識していれば、ヌルい物語にはならなかったはずだ。不思議少女がいなければ、物語ができないというのは、やや不満に思う。
安易な方法といえば、もう一つ気になったのは、いくつかの作品で、物語の閉鎖状況に耐えられず、物語の行き詰まりを「旅」とか「移動」という手段で逃げてしまうパターンが見られたことだ。これは本当に安易な解決法で、閉鎖状況を作家はもっと耐えなければいけないと思う。プロの作家とアマチュアの作家の違いを、ここに強く感じる。プロの作家は、閉鎖的な空間においても豊かな物語を紡ぎ出せる。一方、アマチュアの作家は閉鎖空間に耐えられず「外」へ逃げだしてしまう。旅に出たら葛藤が消えた、というのはあまりに凡庸な物語ではないだろうか。そもそも旅に出たぐらいで解消するような葛藤なんて、大した問題ではないのだ。物語を作る際、いかに「外」に出るかではなく、いかに「外」に出ないかについて、作家はもっと真剣に考えなければいけない。
というわけで、私が良い作品だと思ったのは『寿ネバーダイ』という作品と『洗い場』の二本である。
『寿ネバーダイ』は、結婚式を目前にしたカップルが事故で亡くなる。デザイナーが二人が着るはずであった衣装を作っていると、そこに幽霊となった二人がやってくるというもの。死と生を映像によっていかに関係させるか。死の映像と生の映像を関係させたときに何が起きるのか。こういう作業は映画の基本だと私は思う。この映画は、基本をしっかりと撮った作品で、映画の原理を知っている人が撮った作品だと感じた。
もう一つの『洗い場』は、忙しい厨房を舞台(閉鎖的な空間)にしたコメディ。厨房で働く人のドタバタぶりがテンポ良くまとめられていて、非常に演出がすぐれた作品。技術的にも洗練されていたと思う。上映作品のなかでは、一番プロっぽい作品だと思った。
技術的には『洗い場』という作品のほうが上だと思うが、映像のセンスという点では『寿ネバーダイ』のほうが上だと思う。
なにはともあれ、映画を作るのであればもっと映像を信頼すべきだ。映像ではなく、言葉で説明してしまう映画が多かった。これは、今回のコンクールで、私が感じたもっとも大きな不満である。そんななかで、この二つの作品は映像を信頼した良質な作品であった。