玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』

玄田有史仕事のなかの曖昧な不安 揺れる若年の現在』中公文庫、2005年3月
「仕事」をとりまく現状、とりわけ若者と仕事の関係を分析して、最近の若者が怠惰であるが故に、仕事をしない、あるいは仕事が長続きしないというわけではないということを、精神論ではなくデータを示すことで論じた。若者が仕事をしなかったり、長続きしなかったりすのは、構造的な問題であることを主張する。
簡単にまとめてしまえば、既得権をもっている中高年の労働者を優先してしまうので、必然的に若者にはつまらない仕事しか回ってこなかったり、過度な負担を背負わせる結果になって、若者が仕事にマイナスイメージを持てなくしているのだということだ。だからといって、中高年は切り捨ててしまえばよいという話ではないが。そちらはそちらで、個別に問題を解決していかねばならない。
私が興味をもったのは、後継者の育成というか若者の教育が疎かになってきている現状だ。自前で若者を育てていくという余裕が不況でなくなったのかもしれないが、けっきょく次の世代へ技術なり情報が伝わらない、伝える教育が自分たち自身でできない社会というのは、今はよくても数年後に大きな問題となって現れるのではないか。こういう問題は、企業よりも、実は大学のほうがもっと深刻だと私は最近考えている。
たしか、『現代思想』の「フリーター特集」のなかで、だれだか忘れてしまったが、大学自体に自分たちで教育して研究者を育てていくということができなくなっていることを指摘していた。そのことが私の最大の関心なのだ。
最近でも、たとえば秋元康京都造形芸術大学の教授に就任したというニュースがあった。就任するのは構わないし、こういうふうに、ある分野で成功を収めてきた人の教育もまた学生にとって重要だと思う。しかし、このように、各大学がいわば外部から成功者や有名人を連れてきて教授にしてしまうケースが最近けっこう目立つ。自分たちで、研究者を育てようという意志が大学から失われてしまったのではないかと感じられるのだ。大学はもう人材を教育できない。だから、大学以外で育てられた人を連れてきて埋め合わせしている。大学の存在って何なのだろうと考えてしまう。大学に再生産機能が低下していることは問題だと思う。
本から話がずれてしまった。要するに、問題は手の掛かること、金のかかることを「外部」に任せよう、押しつけようという雰囲気が今の日本社会にはあるということなのだろうか。言わば、「外注」社会といえばいいのだろうか。それによって、いったい誰が損失を蒙るのだろうか。私には分からないけれど。

仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在 (中公文庫)

仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在 (中公文庫)