宮台真司・石原英樹・大塚明子『サブカルチャー神話解体』

宮台真司・石原英樹・大塚明子サブカルチャー神話解体 少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在』パルコ出版、1993年10月
この本はもっと早く読んでおけば良かったなと、読み終えて激しく後悔する。今読んでもけっこう面白いのだ。システム論というものが、いままでいまいちよく分からなかったけど、この本で具体的な使用例を見てなんとなくシステム論による分析方法のイメージがつかめた(ような気がする)。以下、気になった箇所のメモ。
まる文字を中心に「かわいいもの」について論じているところで、こんな分析を見つけた。

 女の子たちは、「かわいいもの」が、主体なきコミュニケーションを可能にすることに気づいた。ここに、対人関係の形式的なコードとしての「キュート」が発見された。女の子たちは、「60年代サブカルチャー」の時代のような<我々>としての内容的な共通性の代わりに、コミュニケーションの形式的な同一性を当てにできるようになった。かくして無内容であるがゆえに流通するようなキュートなコミュニケーションが、可能になったのである。(p.47、強調は本文)

ここの「かわいいもの」をたとえば「ブログ」とかに置き換えても通用するだろうか。この文章を読んで、一瞬これは今でも使えそうだなと思ったのでメモしておいた。あんまり短絡的に考えるのは控えよう。しかし、つぎのような文章を結びつけて考えて良いのかもしれない。

 またオンラインの中での各種サイト運営者のスキルに応じた個性を、ブログは比較的免除してくれる。これはオンラインの中の諸形式の差異をすら隠蔽する。(…)このようにして過剰に民主化したテクノロジーは、ブロガーたちに気構えを起こさせずに「自由」に語ること(しかしもともとから自由があったのではなく、それはおそらくそのように発見させられる)を可能にさせる。柄谷行人がかつて述べたように、内面なるものは、言文一致という「民主的」なテクノロジーによって可能になったものにすぎない。(上野俊哉+泉政文「接続者のしかばねの上に萌えるもの、あるいは工作者の逆襲?」(『ユリイカ』2005年4月号、p.143))

形式の同一性という「民主的」な装置がもたらす「内面」、そしてたれ流しと呼ばれる文章群。ここには《繋がり》の志向しかない。《繋がり》志向に対する違和感がブログの流行への違和感と重なっているように思える。だから、この『ユリイカ』の特集に寄せられた論文で、この上野俊哉+泉政文と鈴木一誌がともにデリダを援用して「ブログ」というライティング(=リーディング)・スペースについて批評しているのだ。
たしかに人間は、放っておくと無限に書き続ける(読み続ける)のかもしれない。デリダが言うには、「紙」の有限性が人を自由にし、「紙」の中断性が自己同一性を確保してくれるということらしい。つまり、中断することが「思想」を可能にしてきたということだろうか。(これはデリダの本に直接当って確認したい。)

 70年代前半、とりわけ東京近辺の進学高校のSF同好会は、新人類文化の発祥の場の一つだった。そこでは、先に述べた「原新人類世代」が「他人が褒めればけなし、けなせば褒める」「ああ言えばこう言う」といった類の、差異化へと強烈に方向づけられたコミュニケーションを行っていた。(p.187、強調は本文)

私は常々、おたく論や80年代論を読むたびに疑問に思っていたことが、ここにすでに語られていた。ここを読んで、やっぱり「東京」の進学校の文化だったのだとようやく確かめることができた。この本をもっと早く読んでおけば、私はおかしな勘違いをしないですんだのに。おたく論にせよ80年代論にせよ、しょせん「東京」の「進学高校」というローカルな文化しか対象にしてないのだろうと私は思っていたのだが、そんなことはとっくに言われていたのか。こんなことも知らなかったなんて、かなり恥ずかしい。私は激しい勘違いをしていたのか。ちゃんと調べてから批判しないといけない。