そうです、何もしていませんから

はてなブックマーク経由で、次のような文章を見つける(「何もしない人ほど批評家になる」)。ちょっと暴論なんじゃないの、というかムカッときた。
前半の「完全主義者」に関することは、巷でよく言われることなので、特に目新しいことではない。問題は、後半部分だ。ここでいう「批評家」というのは、もちろん文学や映画を批評する批評家のことではない。たんに、他人に対して嫌味を言ったり、悪口を言ったりする人のことなのだ。したがって、他人を「批評」することは、人間関係を悪くする。要するに、めんどくさい人間だと思われて孤立するぞ、だから批評なんかしてちゃだめだぞ、ということが言いたいらしい。
このコラムの書き手によると、「批評家」の意識は次のようなものだ。

自分がバカにされないことに意識を集中する。これが劣等意識がもたらす「引き下げの心理」なのです。部下の行動、妻の言動、何かのコラムに批評することで「自分の方が偉いんだ!凄いんだ!」と自分で確認しなければ、気がおさまらない。だから、良いところより、批判することにのみ、すぐに意識が向く。

自分が他人より優れていることを顕示するために人は他人のことを批評する、らしい。ほんとだろうか。劣等意識に常に苛まれているので、その劣等意識を隠蔽するために、他人より自分が優れていることをアピールする。たしかに、そのような心理があることを、完全に否定することはできない。だけど、批評するということと嫌味や悪口を言うこととは、別なことだ。このあたり、はっきりと分けずに、「批評=悪口」の図式でコラムを書いている。

演劇や舞台の批評文ばかりを見て、あの舞台はキャスティングミスさ、台本の流れが問題さと、退屈と苛立ちにアグラをかいて、人を批判するより、面白くもない舞台を一生懸命作っている演出家や出演者の方が人生を楽しんでいるし、心からの友達も多いはず。何もしない人ほど批判精神ばかりを育てて人生を孤立にする傾向があるのです。

批評をするより、実際に舞台に立っているほうが、人生を楽しんでいる!とはいかに。批評は悪口ではないのに。たんなる悪口ならば、たしかに人間関係から孤立もするだろうし、人生も楽しめない(?)のかもしれない。だけど、何もやらない人間が批判精神を育てているというのは、もう暴論以外なにものでもない。そもそも、このコラム自体が「批判」する人を「批判」しているわけで、コラムの書き手こそ自身が批判している「批評」する人に当てはまる。
この書き手が重要だと思っているのは、ノリなのだろう。仲間内の雰囲気を保つノリ。北田氏ふうに言えば《繋がり》だろうか。そして、ノリをまたは《繋がり》を壊すものとして「批評」「批判」がある。《繋がり》を求めるこの書き手には、「批評」や「批判」は厄介なものでしかないのだろう。こういうコラムを見ると、たしかに「批評」が成立しにくい時代になっているのだなと思う。
こういう紋切り型に紋切り型の反論で返すのもなんだが、そもそも「批評」は孤立するものなのではないか。《繋がり》の空間をあえて離れて、メタ的な位置から《繋がり》の空間を見つめることが、批評行為には必要だと思う。批評は《繋がり》から逸脱してしてしまうという意味で、批評家は必然的に孤立せざるをえない。ということを、近代文学は問題にしてきたのではないか?つまり批評するこの「私」という問題だ。
《繋がり》重視の現代社会において、批評するこの「私」という位置が成り立つのか。批評の運命はここにかかっていると思う。