それは結局「批判」の問題なのだ

柄谷行人『探究Ⅱ』講談社
上記のようなことを考えながら、『探究Ⅱ』を読んだ。実は、これまで『探究Ⅰ』も『探究Ⅱ』も読んだことがない。というか、避けてきた。柄谷行人の文学関係の評論は好きなのだけど、哲学関係は私にはよく理解できないからだ。とは言っても、『探究』は柄谷行人の著作のなかでも、よく知られている本だし、順番は逆になるが『探究Ⅱ』から読み始めた。
全部を読み通して、やはり内容を理解出来なかったのだけど、唯一自分のなかで自分なりに消化できた箇所があった。それは、第2部第9章「超越論的動機」という箇所である。
ここでは、冒頭でカントの「批判」は通常わたしたちが知っている批判とは異なると述べる。ある立場から他人を批判することではなくて、カントの「批判」は、「われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。(p.186)」この「批判」の特徴は、また自分自身にも関係するのだとも言っている。だから、「批判」とは「超越論的」なのであると。
これは、たとえばデリダやド・マンのディコンストラクションなどを考えてみればよい。「批判」は脱構築なのだ。そして、また「超越論的」という言葉も同じだと言う。私は柄谷の批評でいつもこの「超越論的」という言葉に躓いていたのだけど、ここでその中身をようやく知ることが出来た。柄谷はこう説明している。

したがって、私は、超越論的ということを、自己意識の構造や自我の統一などといった問題に限定しないで、われわれが経験的に自明且つ自然であると思っていることをカッコにいれ、そのような思いこみを可能にしている諸条件を吟味(批判)することだという意味で考える。(p.187)

私たちが「自然」だなとか、あたりまえのことかな、と思うことをいったんカッコに入れて、その成立条件を問うことが批評であり「批判」ということになるのだろうけれど、この「超越論的」について述べた箇所を読んだときに、これこそ今の私自身には欠けていることなのではないかと思った。
たしかに批判はしているのだけど「批判」はしていないのではないか。つまり自分自身が批判する前提となるような条件なり前提まで、追求していない。自分の「思いこみ」を問わずに、批判をしていた。つまりある一つのフォーマットにただ乗りして、それがまるで当然のことのように振る舞いながら、批判を反復してしまう。先に述べた模倣している者に模倣の意識がない、というのはそういうことだ。けっきょく、自分自身が盲点となってしまう。
「超越論的」でありたい、と思ってはいるのだけど、自分自身に批判の矛先を向けるという作業が一番むずかしい。自分には甘くなってしまうから。そうか、だから柄谷が『探究』を通じて「他者」について思考し続けていたのだろう。そう考えると、『探究』は、「批判」の条件、あるいは私なりに言い換えてしまうと、批評を成り立たせる条件を問い続けた作品ということになると思う。