茂木健一郎『クオリア降臨』

茂木健一郎クオリア降臨』文藝春秋、2005年11月
たしかに、「今時、印象批評なんて…」とこの本を読み始める前に思った。文学を印象で語るなんて、もう散々批判されてきたではないかと。それでも、茂木氏は今現在、印象批評というか「印象」を論じるというので、従来の印象論とは異なる何かを用意しているのではないかと少し希望を抱いて読み始めた。しかし、残念ながら茂木氏の言葉で言うなら本書は「スカ」だった。
印象論はすべてダメ!とは思わない。批評理論やアカデミックな「知」の制度を逸脱した読みを、ときに印象論が示す可能性があるかもしれない。「知」の制度に凝り固まった頭では読めないものを、印象批評が読んでしまうこともあるだろう。印象語りは、こうした制度的な思考を越えたとき、その存在価値が認められるのではないだろうか。逆に言えば、従来の「知」の制度内に留まるかぎり、印象批評は何のインパクトもないし、はっきり言えば退屈でしかない。
本書がなぜ「スカ」であるか。要するに「凡庸」でしかないからであった。従来の「知」の枠組みを破壊や、破壊とまでいかなくても何か刺激を与えるような揺さぶりが全くない。それどころか、退屈な「知」を強固にするだけなのだ。本書は、たとえば小田中氏風に言うならば、「世間知」でもって「専門知」を批判していると言えるだろう。
しかし、一方で、最近、茂木氏の本が立て続けに出版され読まれているのだが、それは茂木氏が「世間知」というか、大衆の感情というか、そういったものをうまくすくい上げているからではないかと思う。本書は、そういう意味では安全無害な本で、数年後には大学入試や高校入試で試験問題になってもおかしくない。茂木の科学批判などは、入試問題としては格好のテキストとなるのではないか。たとえば、情報化社会に対するつぎのような文章などはどうだろう。

ITの無限の成長のシナリオは、デジタル情報を最終的に受容し、その意味を見いだす脳という人間の内なる自然が、無限のキャパシティを持っているということを前提に描かれていた。しかし、実際には、私たちの脳の容量は限界に達しつつある。コンピュータと異なり、人間の脳は、デジタル情報をその意味を問わずに定型的に処理する、というようには設計されていない。一つ一つの情報を、味わいつつ、編集しつつ、意味に深化させていくようにこそ設計されている。インターネットに氾濫するデジタル情報は、私たちにそのような余裕を与えてくれない。私たちの脳は、すでに悲鳴を上げつつある。(p.146)

情報の氾濫に、「私たちの脳は、すでに悲鳴を上げつつある」という批判は、パソコンの苦手な団塊世代のおじさんたちに、「そうだ、そうだ、その通りだ」と大いに受けいれられるのではないか。まして、脳科学者が言うことだから妙な説得力がある。
また、つぎのような文章はどうだろう。

国宝を盲目的にあがめる心性の中には、自己愛が隠れている。博物館の中で「国宝」の札を見て賞賛の笑みを浮かべる鑑賞者を、単に権威主義とかスノッブの呼称で片づけはいけない。私たちは、国宝の壺の掛け替えのなさを確認することで、自らの存在の大切さを担保しようとするのである。(p.172)

これをもって、茂木氏はナショナリストだ、伝統主義者だと批判するわけではないが、ここなどは「脳」還元主義、印象主義の陥穽が現れていると思う。クオリア主義は、ナショナリズムの言説と紙一重なのかもしれない。本書のなかでは、クオリアの純粋性を強調しているが、クオリアとか脳もまた「政治」や「イデオロギー」から切り離せないのではないか。印象批評がピュアなものだと私は思えない。

クオリア降臨

クオリア降臨