北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』

北田暁大『嗤う日本「ナショナリズム」』日本放送出版協会、2005年2月
以前に、雑誌『世界』で書いた2ちゃんねる論を下敷きに、そこに至るまでの歴史を「反省」をキーワードに追いかけた本。
もとになっている『世界』(2003年11月号)の「嗤う日本のナショナリズム」も読んだことがあるけれど、今回のほうは印象を言えば、初出のものよりインパクトがなくなってしまったかもしれない。相変わらず、議論の組み立ての巧さを感じて、こんなふうに論文が書けるようになれたらいいなあとは思うが…。
ここで描かれる歴史とは「反省」の歴史である。「反省」とは、要するに自己ツッコミの技法のことだと言えばよいのだろうか。連合赤軍の事件から、現代まで、人々は自分自身にどうやってツッコミをいれてきたのかということを分析したのだ。その歴史については、著者が最後に簡潔にまとめているので、引用しておく。

思想・世界と自己の立ち位置との突き合わせを過剰に要請する純化された反省=総括から、反省を目的化する態度への抵抗として立ちあげられた「抵抗としての無反省」(消費社会的アイロニズム)、そして総括的なものへの距離意識を欠落させた「無反省」(消費社会的シニシズム)、「無反省」のシニシズムを継承しつつ「人間的であること=反省的であること」を希求するシニカルな実存主義(ロマン主義シニシズム)へ。私たちがたどってきた反省史はおおよそこのようにまとめることができるだろう。(p.236)

私は、本書のこうした歴史記述に、だいたい納得しているし、最近の「セカイ系」の文学にもあてはまる議論になっているのなあと思うのだが、批評書としてはどこか物足りない。批評の対象になっているものが少ないとか、サブカルチャーの歴史で重要なものが論じられていないとか、それぞれの分野の専門家なら、そう批判するのかもしれない。しかし、私の感じる物足りなさは、そういった技術的な事柄ではない。足りない分析は、後から継ぎ足せば解決することだ。したがって、ここで揚げ足を取るような批判をしても対した問題解決にはならないのだろう。(上記のような批判をすることはもちろん必要だが。)
本書に感じる私の違和感の原因は、そうしたことではないような気がする。「気がする」なんて、自分のことなのに甚だ心許ない言い方しかできない自分自身が嫌なのだが。そもそも、連合赤軍の事件から出発することがよく分からない。あと「60年代的なもの」とか「80年代的なもの」という言い方も、どうしてこう表現しなくてはならないのかがよく分からない。それから、ついでに言ってしまえば、北田氏がこの「歴史」を書く必要があるのかどうかが分からない。この本に書かれたことならば、北田氏でなくても良いのではないかとも思える。彼が書かなければならない必然性のようなものが、どこかにあれば、きっと物足りないなんて感じなかったのかもしれない。
たしかに、面白いテーマだし、現代社会の批評として、今後も参照したい一冊ではあるのだけど。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)