大澤真幸『電子メディア論』

大澤真幸『電子メディア論 身体のメディア的変容』新曜社、1995年6月
95年の本だから、もう10年前になるので、今の状況から読んでみると、物足りない感じがする。昨今のメディアを巡る状況の変化はものすごく早いので、メディア論というのは2、3年経つと古くさいものになってしまうのがつらいところ。メディア論をやるには、この「今」という瞬間を常に追いかけていかねばならない。
しかし、だからといって、古い本に関心を向けないという態度も良くない。当時と今と、どのような変化が起き、それによって議論にどのような問題点が生じたのかを分析するのが、とりあえず研究者の仕事なのだろう。そういうわけで、約10年間のメディア論のレベルがいかなるものであったのか。この本を読む意味があるとすれば、そこだろう。そうして振り返ってみると、本書は、現在の批評の界隈で話題になっている「監視社会」批判の萌芽が見受けられ、また有名な「おたく論」の付いているので、今読んでもけっこう面白い内容なのだ。また大澤真幸の身体論、他者論を応用した議論なので、大澤真幸の考えを理解するのに重要な本だと思う。
さて、私が本書のなかで一番興味を持ったのは次の箇所だ。マクルーハンの「ホット/クール」の二分法を紹介しているところである。マクルーハンの議論を追っていくと次の3つの基準が混在しているという。1)高精細度のメディアか、低精細度のメディアか。2)受け手の参与性が低いか、高いか。3)単一の感覚に作用するのか、全身感覚に作用するのか。これれが、平行する形でア・プリオリに仮定されている。
しかし、マクルーハンの議論をさらに厳密に追うと、1)の対立は、2)の対立に従属していることが分かるという。というわけで、ここで受け手の「参与性」が問題になる。
では、「参与性」とは何か。それは「与えられた他者の選択に、自己の選択が混入している、ということである(p.84)」とある。したがって、「極限にまでいけば、それが、他者の選択なのか、自己の選択なのかわからない、という場面にまで行き着くだろう」という。
ここに関心が向いたのは、このような電子メディアと他者性の関係が、阿部和重を読む際に使えるかもしれないと思ったからだ。以前、「鏖(みなごろし)」という短篇作品の感想を書いたとき、私は「むろん画像は不鮮明なものではあったが、オオタの記憶にはっきりと残された、あの男の予告の言葉が、映像の見えにくい部分を補い、一つの完璧なイメージに仕立て上げていた。(p.182)」という箇所を引用して、ここに阿部作品の基本的な方法に一つになっているのではないかと、非常におおざっぱなメモを記した。大澤真幸の議論を、このアイデアになんとか接続させることができるのではないか、そんなことを考えてみる。
阿部作品に現れる主体の複数性というモチーフ、すなわち複数の主体がどれも自分自身ではないかという、他者と自分の同化というモチーフを、メディア論を参照しながら読み解いてみたくなった。

電子メディア論―身体のメディア的変容 (メディア叢書)

電子メディア論―身体のメディア的変容 (メディア叢書)