和田伸一郎『存在論的メディア論』
◆和田伸一郎『存在論的メディア論 ハイデガーとヴィリリオ』新曜社、2004年12月
はじめは正直、「いまどき現象学なのか」とためらいを覚えた。メディア論をきわめて広い範囲で考えたとき、私はすでにたとえば『サブカルチャーや神話解体』や『<意味>への抗い』といった著作を通過してきた。さらに吉見俊哉もいる。そうした現在のメディア論の流れにおいて、現象学で私たちのメディア経験を語ることに正直意味があるのか、と。
ここで、現象学といっても主として参照され議論の対象となるのは副題にあるようにハイデガーだ。ハイデガーに関する論が、私には非常に難解で、何を論じているのかイマイチ把握しにくい。ハイデガーを専門にしている人がどう評価するのかは知らないけど、明快な議論だとは私には思えなかった。
この論には大きく分けて二つの筋があると思う。一つは、私たちのメディア経験、メディアを通じて私たちの身体に何が生じているのかをハイデガーの現象学(いや存在論?)を用いて解明すること。もう一つは、「技術」に関すること。こちらは、ハイデガーの「技術」についての議論を読解することが主目的となっている。で、この「技術」論をヴィリリオに接続することがなされている。
きちんと読めば、おそらく存在論と技術論は二つに分断されることなく、繋がっている議論になっているのかもしれないが、私はそこまで読めなかった。つまり、この二つの問いがどう関連しているのかがイマイチ分かりにくい。それぞれの論、特に後半に大きく論じられている「技術」に関する議論は、かなり面白く読んだのだが。結局、全体としてどういうことなのかが分かりにくい。
どうなのだろう?印象的に言うと、とくに(携帯)電話に関する考察は、著者の先生である大澤真幸『電子メディア論』を越えているだろうか?なんとなく似たような議論をしているという印象を持ったのだが。つまり、ハイデガーとかヴィリリオを取っ払ってしまうと、残ったメディア論は大澤氏の一連のメディア論(あるいは身体論)と同じようなことを述べているのではないだろうか。あくまで読み終えた直後の印象にすぎないが。
- 作者: 和田伸一郎
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2004/12/20
- メディア: 単行本
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