大澤真幸『資本主義のパラドックス』

大澤真幸『資本主義のパラドックス 楕円幻想』新曜社、1991年11月
これは、要するに「近代」とは何かということを論じた本だ。で、本書の「近代」観はどんなものかと言うと、乱暴にまとめてしまえば、それはひたすら外部を内部へ取り込んでいく運動であるということになるだろう。
たとえば「超越性」について。本書では、「超越性」は経験する世界(内在)そのものを定義するものだと説明している。これは伝統的には、「神」のような特権的な身体に投射されてきたのだと。だが、近代になるとそのような外部が、各個人の内部に見いだせるようになるのだ。
こういう話で、私がイメージしやすいのは植民地の問題だ。次々と外部を侵略して内部へと取り込んでいく。しかし、思うにたとえば昨日見た『モーターサイクル・ダイアリーズ』ではヨーロッパからすれば外部である原住民の人たちを内部化するというより、外部でも内部でもない文明の盲点のような場所へ追いやってしまうのだ。つまり、もう見えない存在へと押し込んでいく。これは内部化という侵略、暴力よりもたちが悪いような気がする。これは、ちょっと本書の話とは別の問題だが。
さて、本書で一つメモしておきたい箇所があった。一番最後の章で、環境倫理の議論をしているのだけど、吉本隆明についても触れられている。吉本の宮澤賢治について論を分析しているのだ。
吉本は「グスコーブドリの伝記」を論じており、この話は吉本の「世界視線」をつまり超越的な上方からの視線を象徴的に集約しているという。また大澤氏は、吉本がここから宮澤賢治の二つのユートピア理念を取り出しているという。そのうち一つは、こういうことだ。「自然は人工的に作れること、さらにいえば自然よりも優れた自然が人工的に造成されうるという理念」だということだ。大澤氏は、続けてこう述べる。

つまり、理想的な自然が、自然からの超越(人工)の極限に出現するということである。ここで、理想的というのは、人間と自然の調和的な関係がたもたれている、ということだ。超越への意志は、視線の水準では、上方から俯瞰する視線(世界視線)を凝結するだろう。この宮沢の理念は、(資本主義的な)超越化の極限に、再び自然への内在が出現するはずだ、というわれわれの構図とも合致する。(p.331−332)

この大澤氏の文章が気になる。宮澤賢治ユートピアの理念は重要なのでは。何が重要か。超越(人工)の極限に、ふたたび自然、しかも理想的な自然が出現するかもしれない!?。この議論は、「データベース」と自我の関係を論じた『カーニヴァル化する社会』と繋がっていると思う。自然を自我、超越を「データベース」に置き換えれば、おそらく『カーニヴァル化する社会』の議論になる。「データベース化」の極限において、「理想的な自我」が現れる。『カーニヴァル化する社会』は、そのことを論じたのだろう。ただし、これが良いことだとか悪いことだとかというレベルの話ではなくて。

資本主義のパラドックス―楕円幻想 (ノマド叢書)

資本主義のパラドックス―楕円幻想 (ノマド叢書)