吉田喜重『煉獄エロイカ』

◆『煉獄エロイカ』監督:吉田喜重/1970年/現代映画社・ATG/117分
雑誌『世界』の2005年1月号が、特集で「戦後60年」をやっている。この映画を見る前に、たまたま立ち読みしたのだけど、この特集のなかの大澤真幸「不可能性の時代――戦後史の第三局面」に興味を持った。『戦後の思想空間』と関連する話題なのだろうけど、冒頭で現実に対するものとして「理想」や「虚構」があることを指摘している。戦後すぐは、「理想」の時代で、まだ「理想」が人々に大きな力を与えていたが、1970年代、1980年代の初頭になると「理想」が衰退し、代わって「虚構」の時代になると。なるほどなあと思いつつ、『煉獄エロイカ』を見た。吉田喜重の全体像
この映画は、1952年(過去)と1970年(現在)と1980年(未来)の三つの時代が、時に交錯し、一つの映像に共存してしまうはなはだ荒唐無稽な映画なのだ。映画の構造に関しては、私には説明する力がないし、『吉田喜重の全体像』に収められている四方田犬彦の論文に詳しく書かれているので、そちらを参照してもらいたい。
私には、吉田が戦後をこの3つに分けたのが興味深かった。特に、1980年という映画の制作時における未来を描いた点が面白い。というのは、大澤真幸が指摘したような「虚構」の時代が、この映画でも描かれているような気がしたからだ。1980年の場面で、しばしばニュースのインタビューをパロディ化した映像が登場するのだが、このなかでインタビュー役の青年が、「これで、〜〜どっきりショーを終わりにします」とか言っているのだ。これは、「革命」がテレビの「どっきりショー」と同じ存在でしかないことを、つまり「革命」が「虚構」でしかないことを吉田が示唆したのではないかと思ったのだ。吉田は、大澤真幸の言う「虚構の時代」をこの映画で描いて見せたのではないか、そんな気がしてならない。