仲正昌樹『ポスト・モダンの左旋回』

仲正昌樹『ポスト・モダンの左旋回』世界書院、2004年11月
ときどき(私にとって)難解な箇所があるのだけど、日本の「ポスト・モダン」の思想家・評論家と言われる人たちへの痛烈な批判はかなり説得力がある。
仲正氏が批判するのは、要するに表象=代行が持っている暴力あるいは抑圧的な力であろう。「われわれは、○○だ」と「われわれ」を持ち出して、その価値観を押しつけてくるもの。また、微妙な差異にこだわり、「マイノリティー」には語り得ないものがあるとして、その「代弁」をしようとするもの。こうした人たちが、著者にとって「典型的な左翼」のイメージであるという。要するに、どちらも自分たちこそ「真理」を持っていると錯覚し、それを盾にしながら敵を批判(いや批難)しようとする人たちなのだ。
私自身は、後者の「マイノリティー」を結果的には代弁するような形で(つまり、「マイノリティー」をネタにして)、一方的に自分たちのイデオロギーを押しつけてくることに対して日頃から反感を持っているので、本書の「左翼」批判は、我が意を得たりという感じ。
さて、仲正氏がこうした「典型的な左翼」を本書で徹底して批判するのは、次の理由からだ。

両者とも、まるで「神の言葉」のような究極の"基準"を持ち出して、相手の発言を封じてしまうからである。(p.290)

「神の言葉」を持ち出して、相手に何も言えないようにする。そうして、自分たちだけが語りを続けるのでは、「対話」などあり得ないだろう。「「上」から抑圧してくる「啓蒙主義者」も、「下」から拘束してくる「差異主義者」も、本当の「対話 dialogue」を回避して、「ひとりよがり」を押し通そうとする点ではよく似ている(p.290)」というわけだ。
ポスト・モダンの話になるとしばしば言われるように、「大きな物語」の語りが失効して、「小さな物語」=差異ばかりが流行するようになった。その典型が、柄谷行人あるいは浅田彰だったというわけだが、その柄谷が再び「大きな物語」へと方向を変えたのではないか、それが本書でいう「左」への転回だ。
ところで、著者は柄谷やフーコーに憧れて「小さな物語」を志向する人たちを、こう批判している。

しかしながら、柄谷やフーコーの「小さな物語」に憧れる人たちのほとんどは、「大きな物語」の限界を感じて、それに対する「批判」として「ミクロ」を志向しているわけではない。「大きな物語」を扱うのは大変だし、批判を受けやすいから、手軽な「細かい話し」に手をだしているにすぎない人たちがやたら目立つ。「活動」するにしても、自分は「細かい話し」にだけ専念しているというポーズを取っておけば、大きな「責任」を回避することができる。(p.302)

このあたり、けっこう共感してしまう。著者は、「小さくなってしまった話」を再び、「大きな物語=歴史」へと繋いでいくことに反対するわけではない、と言っている。問題はその戻り方にあった。かつて、ポスト・モダンであった人たちが、「左」へと転回するのを批判するのも、戻り方が良くないからである。著者は言う、「日本の元ポスト・モダニストたちのやっているのは、理論的・実践的な整合性のない、雰囲気的なものだと思っている。「空気」に流されているだけである(p.303)」と。安易に「大きな物語」に依存するのもダメだし、かと言って「小さな物語」に終始しているだけでもダメだ、ということだろう。
というわけで、タコツボからいかに脱出するか、というポスト・モダンを批判する際には考えなければ行けない問題が現れる。これは、難しい。本書でも、まだその見通しは立てられていない。「どうしたら穴蔵から出て、「他者」と「対話」できるようになるか考えるべきである(p.306)」と述べるに留めている。この問題は、もう言われはじめてから何年にもなるだろうけど、未だに説得力のある解答が示されることってないなあと思う。それだけ深刻でかつデリケートな問題なのだろう。私も「大きな物語」と「小さな物語」を接続する仕方が分からない。

ポスト・モダンの左旋回

ポスト・モダンの左旋回