吉田喜重『告白的女優論』

◆『告白的女優論』監督:吉田喜重/1971年/現代映画社/122分
これは、精神分析を題材にした映画なのかなと思った。政治とエロスの三部作の間に作られた映画だが、この映画も演劇的だと言いたくなる。というのも、この映画はセリフがものすごく多いように感じたのだ。アクションによる映画ではなく、言葉による映画だと思う。
とにかく、三人の女優のトラウマ(内面)を、言葉によって説明しようとする。しかし、おそらくこの言葉の過剰さが無意味であることを示すために、大量の言葉を言葉を放出することによって、言葉を空回りさせようとしているのではないか。
カメラの前に立つ映画女優の圧倒的な存在感。ラストで、「告白的女優論」の撮影に入った三人の女優の姿は、それを示している。いかなるスキャンダルがあろうとも、過去にどんなトラウマがあろうとも、カメラの前に立った映画女優こそが真実の姿なのではないか。カメラの前の立つ映画女優に対し、言葉はもはや何の意味も持たないだろう。
ところで、話は変わるが、吉田喜重の映画を見続けていると、服装はまるで脱ぐために着ているように感じる。そもそも服装自体が脱ぎやすくなっていたとしか思えないことが多い。裸体こそが、本来の衣装であり、裸体にまとっている服装は、遅かれ早かれ脱ぎ捨てられてしまうか脱がされてしまう「仮」着にすぎないのではないかと思う。
脱ぐために身に纏う衣装。この『告白的女優論』においても、やはりたとえば、浅丘ルリ子がいとも簡単に身に纏っているものを脱ぎ捨てるシーンがあるのだ。この場面などは、脱ぐために脱ぎやすいもの(たしかネグリジェ)を着ていたとしか考えられないだろう。衣装とは、脱ぐためにあることの傍証となるだろう。