小津安二郎『麦秋』

◆『麦秋』監督:小津安二郎/1951年/松竹大船/白黒/124分
ずっと見たいと思っていた作品。ようやく見ることができてうれしい。これで、夏三部作と呼ばれる作品(『晩春』『麦秋』『東京物語』)を全部見たことになる。
この映画は、印象的な場面が多い。突然、結婚の申し込みを受けてしまう紀子(原節子)の場面とか、家族写真を撮る場面とか。もちろん、ラストの田舎で、遠くに花嫁が歩いていくところを老夫婦が見つめるのも有名なシーンだ。
個人的には、兄嫁(三宅邦子)と紀子が、ほんとの姉妹のように、海岸で戯れる場面も美しいと思うし、原節子が映されることのない階段を勢いよく駆け上がるシーンもよい。原節子の軽々とした身のこなしなどは、要チェックだと思う。
釣りバカ日誌』にも引用されていた、杉村春子がぜひ息子の嫁にと懇願し、その申し出をあっけなく承知する原節子の場面だけど、圧倒的に『麦秋』のほうがすばらしい。原節子の場合は、この決断が単に紀子一人の問題ではなく「家族」全体へと大きく波及する問題になるのだが、『釣りバカ日誌』での江角マキコでは、そもそも家族がおばあさん一人しかおらず、結婚の問題は「家族」の問題というより、個人の問題へとずらされてしまう。これは、もちろん時代や社会の反映だと答えることができる。
釣りバカ日誌』のほうが、一つの新しい「家族」の誕生となるのに対し、『麦秋』では「家族」の離散へと繋がっていくのは、ちょうどベクトルが逆方向を向いていることに注意したい。
さらに「家族」の離散といえば、不気味だと思うのが、老夫婦と杉村春子が紀子の縁談の話をしているとき、唐突に戦争で行方不明になった息子の話を持ち出すのだ。喜ばしい話とそれとは逆の「死」に繋がる話が共存している。相矛盾するものが同居してしまう。まさに小津の映画らしい構造だ。バシュラールは『空間の詩学』のなかで、「家はわれわれに拡散したイメージと同時に、一つの集合イメージをあたえる」と述べている。これは、『麦秋』の「家族」(=家)のイメージにちょうど当てはまるのではないか、と思う。