富岡幸一郎『仮面の神学』

富岡幸一郎『仮面の神学−三島由紀夫論−』構想社、1995年11月
相対主義的思考から「唯一教的命題」へと三島が移行していく過程を論じる。三島といえば「天皇」が問題にならざるを得ないが、富岡は三島が言う「天皇」とは唯一神すなわち「God」であったことを指摘する。そもそも日本人の神観念は、キリスト教的な唯一神とは異なるものだ。だが、三島が考えていたのは絶対としての神と言えるもので、「などてすめろぎは人間となりたまいしぞ」と呪詛した時、そこにあったのは「<神>か<人>かを厳格に弁別する一神教的神観念」であったという。したがって、三島にとって天皇人間宣言は見逃せないものとなっていった。
こうした背景には、日本の近代文学がヨーロッパのの近代文学を移植しつつも、ついにキリスト教の「神の問題」を自覚的に対峙することのなかったということもある。すなわち「神」の不在である。富岡にとって、三島こそ、日本近代文学のなかで正面から唯一神あるいは絶対の問題と対峙した文学者であったということになるだろう。

『英霊の声』以降の三島由紀夫が突き当ったのは、天皇制の問題をはるかに超えた、「神」の不在(というより「神の問題」の不在)の近代日本における「神学」的課題ともいうべきものであった。(p.65)

三島が、たとえば『潮騒』(昭和29年)を書いていた頃、われわれは相対主義に留まるべきであり、「唯一神教的命題」には警戒するべきだと述べていた。だが、『太陽と鉄』を書いたころになると相対主義への嫌悪へと転換している。この転換は、必然的に死に向かうことになるだろう。三島における相対主義と絶対主義の関係は常に重要な問題だ。三島におけるこの変化は、今ちょうど私自身も追いかけていたところだったので、本書の議論は非常に参考になった。私は、昨日の日記でも簡単に記したように、「身体」というものを通して考察するつもりだ。
三島は「日本人の最高のものに対する批評の形式としては、死しかない」と語ったという。絶対と相対。やっかいな問題である。

仮面の神学―三島由紀夫論

仮面の神学―三島由紀夫論