シェーン・メドウス『家族のかたち』
◆『家族のかたち』監督:シェーン・メドウス/2002年/イギリス/104分
シェーン・メドウスという監督の作品を初めて見た。『トゥエンティフォー・セブン』という作品を撮った監督らしいが、この作品もまったく知らなかった。カンヌ映画祭で好評だったと宣伝されていたし、ロバート・カーライルが出演しているので、悪い映画ではないだろうと思って楽しみにしていた。けっこう、予告編が良かったし。
映画の前半は、かなり面白い。登場人物たちのだらだら感が良い。天然がかった笑いが、私にはすごくよかったのだが、後半になって、物語が主人公に焦点を合わせると、並の作品になってしまったなあと感じた。その理由として、元夫と恋人の間で揺れる女性シャーリーをうまく描けていないからではないだろうか。この女性、たんに男に弱いだけなのではないか、としか思えないのだ。恋人のデックに、はじめは「あなたしか愛していない」と言っているにもかかわらず、元夫のジミーが家に押しかけてくれば、拒否しつつも泊まらせてしまう。しかも、あっさりと恋人のデックは出て行くのだが、それに対しあまり動揺を見せない。おいおい、そんな非人情でいいのか、というぐらい女性の描き方が下手なのだ。
一方で、最終的にデックとシャーリーの間をつなぐシャーリーの娘が、けっこうおませで、大人よりも冷静に人物を観察している。こういう子供の設定はありがちといえばありがちなのだけど。
音楽の雰囲気から、どうしても西部劇をイメージしていたのだけど、流れ者がやってきて、家庭に動揺がはしり、その危機を乗りこえ、流れ者は去っていく。車が本作では効果的に使われているわけだが、車を馬にしてしまえば、西部劇の物語になってしまう。
車が効果的に使われているというのは、物語の転機になる箇所で、かならずデックの愛車がかかわっているからだ。元夫が戻ってきたことを知ったデックが動揺して、深夜に愛車で買い物に行くと出て、猛スピードで走っていると、途中で事故ってしまう。そこで、デックは偶然にも噂の元夫ジミーと直接対面してしまう。
また、故障した車が戻ってきて、さっそく子供たちとドライヴに出ると、その先でジミーとシャーリーが逢い引きしている場面に出くわせてしまう。ああ、車が故障していれば、こんなイヤな場面を見ることはなかったのに。
さらに、ジミーを探しに来た、ジミーの仲間の悪者3人組にデックは、ジミーの居場所をこっそり教える卑怯な方法に出る。そして、そのとばっちりを受け、ジミーの姉の夫が襲われ怪我をする。ジミーの姉キャロルはそれに怒って、またしてもデックの愛車は壊されてしまう。
決定的なのは、デックはシャーリーを諦め、町を出て行こうと愛車に乗り込んだとき、一緒に出て行くとシャーリーの娘マーリーンが乗り込んでいた。デックの心を変える大事な場面である。それが、愛車の中で行われるというのが、いかにこの映画が「車」の映画であるかを示している。
こうして「車」に注意してみると、シャーリーとデックの間を邪魔しているのは、ジミーではなくて、むしろデックの「車」のほうなのではないかと思えてくる。なにしろ、デックは最後にこの愛車をジミーにくれてしまうのだ。「この車をやるから出て行け!」というわけだ。
こういう見方もできる。つまり、この映画はとにかくデックの愛車を壊したいのだ。実は、デックの愛車を壊すことに快感をおぼえる映画なのである。だから、執拗にデックの愛車は災難に遭ってしまうのだ。
しかし、愛車が災難に遭うことによって、デックは愛車の保護膜から抜け出すことができ、それによってデックはようやくシャーリーに本当の家族として受けいれてもらえることになるのだ。したがって、この映画はシャーリーが二人の男性の間で揺れる物語と同時に、デックが「車」を選ぶかシャーリーを選ぶのかを決断する物語でもあるのだ。
「車」は移動する人物にふさわしい。定着を基本とする「家族」には、移動する「車」はふさわしくないということだろう。この町に家族として定着し暮していくだろうデックには「車」はふさわしくないし、町を出て行ったり、戻ってきたりしている流れ者のジミーに「車」が渡されるのも物語の論理として必然的なものであった。
私が、この映画の真の主人公は「車」であると思うのは、こういう理由からなのである。