言語の問題
◆『比較文學研究』84号、2004年
「特輯 共通言語・支配言語と比較文学」
この特集には、いろいろ考えることがあるのだけど、とりあえず以下の二つの論文は読んでおきたい。
・大澤吉博「特輯「共通言語・支配言語と比較文学」に寄せて」
・平川祐弘「覇権的文化とナショナルな詩論の発生について」
大澤論文では、フランコ・モレッティの議論が検討されている。文学研究には、"close reading"に加えて"distant reading"も必要ではないか。"distant reading"=遠望的読解は、テクスト見いだせるパターンを抽出しようとするもの。この作業には、かならずしも原文を用いる必要はなく、ときには翻訳を使って行われるだろうと。つまりモレッティは(比較)文学研究が必ずしも原文中心主義である必要はない、ということを暗に示唆した。しかし、この点に多くの批判が集まったということらしい。
私のように外国語ができない人間にとっては、原文主義は非常につらいので、モレッティの議論には興味があるのだが。
一方で、やはりというか平川氏は語学の達人だけに、原文主義者なのだ。したがって、可能限り比較文学者たる者は、外国語を身につけるべきだと。これに反論するのは、難しいが、語学ができる人は、他の人もみんな自分と同じようにできると勘違いすることもあるので、語学ができない人の身になれないという欠点がある、ということを負け惜しみで言っておきたい。もてる人がもてない人の身になれないということと同じ。ただ、平川氏は「知識人にはバイリンガルな人が多数を占めるであろう時代において、トリリンガルな人が、第二外国語をも駆使し得るような、三点測量のできる比較研究者こそが、より公平な判断を下し得る、この地球社会の安定的要素になるに相違ないと思われる」(p.30)と言うが、ここはもう少し検討してもよいのではないか。
多くの外国語ができると、より公平な判断がほんとうに可能か。知識人の判断はそれほど特権的な立場なのか。
◆『すばる』2000年10月号、第22巻10号
中村彰彦+沼野充義+井上ひさし+小森陽一「座談会昭和文学史 三島由紀夫と安部公房」
三島と安部は一つしか年齢ちがわない(安部が一つ上)同世代の作家。この二人はある意味、正反対に作家なので、並べて論じるというところに興味が湧いたのだが。
読んでみると、小森+井上の「左」コンビが、やっぱりというか案の定というか、三島を「伝統」主義者→×、安部を「反伝統」主義→○として、三島よりも安部を好意的に捉え、最後はこの二人が戦後の日本の精神を象徴していると無難なところに落とすという、ある意味予想通りの展開。今の小森陽一なんて、そんなものなのだ。かつての切れ味がなくなって久しい。
それにしても、こういう凡庸な「物語」には、やはり細部を積み上げて対抗するしかないのだろうなあと思う。