少し読みにくく難しい

紅野謙介『投機としての文学』新曜社
◆根本美作子『眠りと文学』中公新書
日本近代文学の研究者で、一番カルチュラル・スタディーズのようなことを熱心に行っているのが紅野氏だ。かつては、書物の装丁などから、「文学」を論じたりもしたが、この本では雑誌や新聞が、読者に小説の投稿を募り、優秀作は新聞や雑誌に掲載される「懸賞小説」というものから、文学が成立する「場」を論じた。「文学場」とも言うこの「場」は、ただたんに作家が、文学を創造する空間だけを意味するのではない。文学を創作し、そしてそれを売り、消費するといった文学の流通の現場も含めた「場」を分析すること。ここが、紅野氏の論の注目すべきところなのだろう。
したがって、文学プロパーの人は、当然こう言うはずだ。「文学作品の具体的な読みの分析が少ないではないか」と。しかし、これは、紅野氏の戦略だから仕方がないのだろう。
とは言っても、この本に収められた各論考は、必ずしも資料の羅列で終始しているわけではない。読むべき時は、詳細な読みを施し、その分析は面白い。
「懸賞小説」に関して思うに、文学が文学と成立するには、その下に多数の名も知れない作家希望者たちがいたのだろうなあということだ。多くの作品が、密かに書かれ、消えていく。その中で、ほんの一握りの人が、やがて「作家」として登場し、そしてさらにほんのわずかな人が、「文学史」なるものに名が残っているのだ。紅野氏の研究は、「文学史」から抜け落ちた「文学」を拾い集める作業だと思う。
これは、単に文学の世界だけでなく、他の世界でも同じなのだろうけど、ある世界で有名になる、歴史に名を残す作品を作る、というのはその下には無数の屍があるのだろう。まあ、学者の世界も同じなのだろうけれど…。
『眠りと文学』は、プルーストカフカ、そして谷崎潤一郎の三人の作家を取り上げて、それぞれが「眠り」をどのように描いているのか分析した好著であると言えるが、私にはこの人の文章は読みにくい。とくに難解な用語を用いるわけでもなく、おかしな癖のある文体でもないのだけど、一読してもすっと頭に入ってこない。何度か読み直してみないと、内容が頭に入ってこないのだ。読書をしていて、時々このような体験をする。要するに、著者の文体のリズムと私自身の読みのリズムが決定的にズレていて、そのズレに最後まで慣れることができない。こういう読書は、けっこう精神的にも肉体的にもつらいものとなる。この本は、内容はとても良いものだけに、私にとって読みにくいということがすごく気がかり。
簡単に要約しておくと、この本のキーワードは<現>(うつつ)というものだ。<現>は、分りやすく言ってしまえがフィクションと言っても良い。つまり、ここにいるのにあたかも存在しないかのような、あるいはここには存在していないのに、まるで今ここに存在しているかのように感じることだ。ここでは、現実と虚構というものがはっきりと境界線を引くことができない。
この<現>を著者は、折口信夫を参照して、そもそも古代世界にあったものだとする。しかしやがて現実と虚構を明確に分けるようになったが、一九世紀末から二〇世紀にかけて登場した新しいメディアが、この<現>の力を甦らせたのではないか。プルーストカフカや谷崎は、写真や電話、映画というメディアからこの<現>を描き出した作家であることが、詳しく論じられている。
面白い内容なんだけどなあ。私には、どうしても読みにくい。