時代に没頭してはいけない

石川啄木時代閉塞の現状 食うべき詩 他十編』岩波文庫
ちょっと必要があって、啄木の文章を読んでいたのだけど、啄木はけっこう面白い評論が多い。というか、こういう「せっかち」な判断というか思いこみは良くないのだけど、冗談半分で言うと、明治40年代つまりこの「大逆事件」が起きたあたりは、ちょうど今現在の社会状況と似ているのかなあと感じた。「大逆事件」批判が、たとえば今の監視社会批判とどこか通じる。ともに国家と個人の自由が争点となっているからか。啄木が書いた有名な評論の一つ「時代閉塞の現状」など読んで、そう感じた。
ここで、啄木は今や我々は自己主張の強烈な欲望があるのだという。しかし、自然主義は登場したころと同じように、今でも理想を失い、方向を失い、出口を失った状況であることに変わりがない。長い間鬱積してきた力をもてあましている。
要するに、啄木は明日や未来が奪われた現状を糾弾して、それを「時代閉塞」と呼んでいるのだろうけど、たとえば教育ではどうか。
一人の青年が教育家として、教育とは次の時代のためにする犠牲なのだ、ということを知っている。が、しかし、今日の教育は「今日」に必要な人物の養成しか考えていない。したがって、この青年が教えることと言えば、ただリーダーの繰り返しか、どの学科においても初歩にところを毎日死ぬまで講義するだけだ。それ以外のことをしたら、彼はもはや教育界にいられないだろうと。
さらに「時代閉塞」の問題が続く。今日の父兄は、一般の学生の気風が着実になった、と喜んでいる。しかもその着実というのは、在学中から就職口について心配しなければならなくなった、と言うことだと啄木は言う。こうして着実になったと言っても、現実には毎年何百という大学の卒業生が、その半分は仕事に就けず、下宿に留まっているではないか。だが、彼らはまだ幸福なほうで、他の学生に至っては途中で教育を受ける権利を奪われてしまっている。こうして今や「遊民」という不思議な階級が増すばかり。今や、どんな僻村に行っても、中学の卒業者が三、五人はいるだろう。彼らはただ親の財産を食い減らす事と無駄話をすることしかしていないのだ。
こういう社会批判などは、私にはかなり身に応える。明日も未来もない青年は、こうして内向的、自滅的になっているというわけだ。
一方で、「強権」の勢力は国内に行き渡り、その組織は完成しつつあるように思える。が、しかし、貧民と売春が増加しているというのはどういうことか。今や犯罪が増えた結果、微罪の不検挙、無数の売春の容認という事実。今や、小説や詩のほとんどがこうした売春や姦通の記録であることはけっして偶然ではない。これを非難することはできない。なぜなら、国法が容認しているのだからと啄木は批判している。
というわけで、啄木はこう付け加える。

かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、遂にその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、実に必至である。我々は一斉に起ってまずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。(p.118)

「明日」の考察が必要だという。啄木は、批評精神を失った自然主義を批判している。「明日」について研究することによって、「今日」への批評的な位置、柄谷風に言えば超越論的になれるというのだろう。最後に啄木は、こう記している。

時代に没頭していては時代を批評する事が出来ない。私の文学に求むるところは批評である。(p.121)

かっこいい。こうしたラディカルな思想こそが、三浦雅士の「青春」というものだなあ、なんて思う。