北田暁大『<意味>への抗い』

北田暁大『<意味>への抗い――メディエーションの文化政治学せりか書房、2004年6月
これまで発表された論文を集めた本。なので、以前に読んだ論文もいくつかあり、読み終えるのにそれほど時間はかからなかった。しかし、収められている論文はなかなか鋭い視点で書かれていて、茫然としてしまった。そもそも北田氏の出発点である広告論から、メディアへと視野が広がっていったことが本書を読むとよく分かる。
ここでは「媒介性」という言葉がキーになっているのだけど、ともすればメディアと透明な存在へと追いやってしまうメディア論を批判的に検討し、「媒介」そのものを思考する方法を探る姿勢に共感を覚えた。
だけど、私は思考の足腰が脆弱なので、北田氏の方法にはついて行けそうにないなあとも思った。<意味>に抗うどころか、<意味>をどうしても求めてしまう私がいる。ここで、思い切った方法の転換をしなくてはと思うのだが…。
本書に収められた論考で私が一番興味を引いたのは、ポピュラー音楽の歌詞を巡る言説を分析した「ポピュラー音楽にとって歌詞とは何か 歌詞をめぐる言説の修辞/政治学」だった。北田氏は、以前の広告論でベンヤミンの「気散じ」という概念を用いていた。つまり、わたしたちは「広告」をそれほど真剣に真面目に見るのか、ということを念頭に入れているのだ。そして「緩さ」というものが重要な鍵となる。
この「緩さ」は、ポピュラー音楽の歌詞を考える時にも用いられている。私たちは歌詞をまじまじと分析したりするのか?
私はここでふと立ち止まる。「緩さ」?。これは、もしかすると映画を見るときにも当てはまることなのではないか、と。たしかにシネ・フィルと呼ばれる人たちは、映画の画面を細大漏らさず見る。私も、日記のなかで、そういう映画の見方を賞賛してきたのだが、当然のことながら、こうした真剣な見方は例外的だ。映画館で、映画を見ながら居眠りをしたりすることもあるだろうし、お菓子を食べながら、コーヒーを飲みながら鑑賞することは珍しいことではない。あるいは、自宅でビデオを見るときはどうだろう。
「緩さ」というものを考慮すると、蓮實的な映画批評を相対化することができるのではないかと思う。「20世紀は動く絵を嫌う」とか「我々は映画を見たのか」と言う言葉に代表されるように、蓮實的批評では「説話」に対し「主題」あるいは細部への優位さが示される。これは、「物語」から映画を解放したという点で、私はとても重要な批評だと思う。が、しかし…。細部を真面目に見ることが映画を見る体験でもないのかもしれない。なんとなく総体として映画を受けとることもあるのではないか。こうした受容のあり方を批評に組みこむことができないのか。そんなようなことを考えてみた。具体的には全然分からないけれど。とりあえず、蓮實的な映画批評に対する批評の足がかりが見えたかもしれないと思う。余裕ができたら、このあたりをもう少し追求してみたい。