ずいぶんと遠くまで来たなあ

高橋源一郎日本文学盛衰史講談社文庫
昨日と今日の二日掛けて、一気に読む。かなりというかめちゃくちゃ面白いではないか。今まで読まなかったことがすごく悔やまれる。雑誌連載の時から読んでおきたかった。
この本は良い。何かの間違いで、将来近代文学を講義することになったら、この本を教科書にしたいぐらいだ。
たくさんの要素が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、この絡まりを解いていく作業はかなり大変だ。たとえば、この小説に注釈をつけるなんて作業をするとなると、注釈者はかなり広範囲に調べることがあるのだろうなあ。私は根気がないから、絶対にやらないだろうけど。文体だけでも腑分けするのもきっと大変だ。でも、この小説にはどんな文体が使われているのかは、気になるテーマだ。
思えば、明治の文学者にとって、「文学」を書くための言葉、すなわちどんな「日本語」で書けばよいのか、ということが最大の問題だった。さまざまな試行錯誤や実験を通して、「日本語」の領域を拡大してきた。その結果が、この小説、『日本文学盛衰史』なのだ。ああ、「日本語」の表現方法はここまで来たのか、ずいぶん遠くまで来たものだと感じるか、それとも「日本語」の表現は明治の頃とほんのわずかしか変化していないのではないかと考えるか。果たしてどっちなのだろう?
もう少し中身に触れてみる。たとえば、「日本語」で表現するといってもさまざまなレベルがある。北村透谷ならば、自分自身のなかに何やら得体のしれない「内面」があることに気がついた。しかし、その「内面」を表現する言葉がない/なかった。
また自然主義では何が問題か。たとえば、田山花袋。花袋が目指したことは、「露骨なる描写」すわなち、見たものをありのままに描写することだ。この花袋の理論が、アダルトビデオの監督に簡単に批判されてしまうところが、本書の面白いところだ。要するに、ありのままを描きたいのなら、ビデオで良いじゃないか、ということだ。「言葉」なんて使わなくて良いじゃないか。
その後、この小説の作者タカハシさんは「原宿の大患」に陥るわけだけど、ここでは「露骨なる描写」の実践ではないだろうが、胃潰瘍の写真が、しかも出血する胃の内部の写真が掲載されている。なんだか、タカハシさんは花袋の問題を受け継いでいるようだ。
言語表現の問題は、なにも言語の内在的な力だけが問題となるわけではない。言語にとって外部といえる「政治」とも衝突する。それはたとえば石川啄木と中心に語られる。つまり「大逆事件」のことだ。文学者は政治を前に書きたいことも書けなくなるのか。啄木のラディカルな言葉に困惑する漱石の姿が、本書では描かれている。
そこから、漱石の『こころ』をタカハシさんが読み解く。この章も本書の興味深い論点ではある。漱石は、どうして何かを隠しているような書き方をしたのか。一体「K」とは誰なのか?
さて、本書を通読してすぐに気がつくのは、文学者の「死」がたくさん描かれていることだろう。そもそも小説の始まりは、二葉亭四迷の死からだ。そして、最後の章では、文学者の死亡記事が長々といくつも引用されている。まるで、「文学」は「死」んだと言わんばかりなのだ。だけど、実は少しは希望を残しているとも言える。「死亡記事」の引用を書き終えたところで、タカハシさんに聞えてきたのは赤ん坊の泣き声だった。「死」のみならず一番最後に「生」が現れる。もしかすると、新たな文学が生れる可能性があるのかもしれない。