この本を超えたい

柄谷行人『増補 漱石論集成』平凡社ライブラリー
この本を読むのは、おそらく二回目。柄谷行人の代表的な漱石論「意識と自然」も何度も読んでいるはずなのだが、まだ自信をもって批判するぐらい理解できていない。もっともっと精読して、批評しないと。この漱石論をいつかは超えていきたい。
以下、気がついたことのメモ。
柄谷行人漱石論には、いくつかテーマがあると思うが、とりあえず中心となるのは次の二つか。
1)構成の問題
2)ジャンルの問題
構成の問題は、この「意識と自然」の中心テーマとなる。漱石はしばしば作品のなかで、倫理の問題と存在論の問題という二つの主題をそれぞれ別個に無関係に展開してしまう。それは、従来の小説観からすれば、構成的破綻を来しているとみなされ、つまり「漱石の技術は未熟だなあ」という批判しかなされなかった。しかし、この二つの主題の構成の意味を単に破綻と解釈するのではなく、その意味を追求するべきなのだ、というのが柄谷の論。
ジャンルの問題は、大岡昇平漱石論を受けついでいる。大岡は、漱石の時代には「文」というジャンルがあったのだとして、漱石は「美文」というジャンルを書いたのだ、というもの。柄谷は、基本的に「文」というジャンルがあったという考えを受け継ぎながらも、それはただ単に「美文」という一つのジャンルに留まらず、もっと多様なジャンルであったことを述べ、漱石の実行した「文」あるいは「写生文」のポリフォニー性を指摘する。漱石の作品は「近代小説」に近いが、けっして「近代小説」ではなかったこと、いわば反近代小説と呼べるものだということが注目に値する。
さて、次に私的に気になったこと。
それは、日本の家族における「父」や「母」の問題である。あるいは「家父長制」について、もっと考えるべきことがあるだろう。しばしば、文学研究の論文で、「家父長制のもとで、女性が抑圧されていた」という言い方がなされる。しかしながら、その一方で、日本の「家」における「父」の影の薄さ、ひいては影響力の弱さの指摘もある。本当に「日本」の「家」で「父」と真正面から対決し、「父」の絶対的な力を乗り越えようとした人物がいただろうか?
「父」の不在の一方で、「母」の影響力の大きさをもっと注目してよい。ただし、「家」における「母」の影響力が大きかったからといって、女性が実際に自由であったかどうかは別の問題だろう。「母」の力が大きかったから、即女性は抑圧されていなかったと結論することはできない。
そのあたりを踏まえた上で、山下悦子の以下の記述をもう少し考える必要があるのだろう。

だが、フェミニストも、マルクス主義的な価値観をもつ批評家も、戦前の「家」を封建的な家父長制度として一括して語り、女や母が男尊女卑の下で抑圧されてきたと安易に論じ続けてきた。しかし、女性史研究の成果では、日本の「家」ほど「父」が実際的にも観念的にも希薄だったことはないのであり、儒教的価値観が強いとされる江戸時代の武家社会でも養子制度は日本の伝統であった。(『マザコン文学論』)

ここで思い出したのは、二葉亭の『浮雲』。この作品は、たしかに「父」の存在が希薄だったという印象がある。ともかく、「家父長制」という言葉で前近代も近代も一括して論じるのは危険なのではないか、ということを指摘しておきたい。
このことと少し関連して、もう一つメモしておきたい。『三四郎』の美禰子といえば、一方的に男たちから「眺められる女性」というイメージが強い。最後は、絵の中に閉じこめられてしまうのだ云々といった意味づけも可能だろう。しかし、以下の記述を注意深く読んでみたい。

「さう。実は生つてゐないの」と云ひながら、仰向いた顔を元へ戻す、其拍子に三四郎を一目見た。三四郎は慥かに女の黒眼の動く刹那を意識した。其時色彩の感じは悉く消えて、何とも云へぬ或物に出逢つた。その或物は汽車の女に「あなたは度胸のない方ですね」と云はれた時の感じと何処か似通つてゐる。三四郎は恐ろしくなつた。

柄谷行人は、この部分を引用して続けてこう論じる。「この出会いの一瞬は決定的である。」「美禰子も三四郎を意識していたことは、あとでわかる。」「この出会いを恋というならば、彼らは恋しあったといってもよい。しかし、結局何ごともおこらなかった。」(p.442)
これが、「恋」なのかどうかは分からない。そうなのかもしれない。「恋」とは別に、私が気になったのは、美禰子が「三四郎を一目見た」という箇所である。美禰子は、一方的に視線を投げかけられる存在だ、というわけではないのか。美禰子は見られる女性でありまた、三四郎を「見る」女性でもあったのか、と。女性とは「見られる存在」なのに、逆に「見る」存在でもあったことに気がつき、三四郎(あるいは男)は美禰子(あるいは女)が「恐ろしくなつた」という解釈も成り立つのか。なるほど。
そもそも、このように視線が交差することで、二人の間に「恋」が生れる/ていた可能性という解釈ができるのだろう。一方的に、三四郎が美禰子を見つめるだけであったら、それはストーカーでしかない。美禰子の視線の行方にも注意が必要だ。