『漱石と三人の読者』

石原千秋漱石と三人の読者』講談社現代新書、2004年10月
巧い。現在の文学研究者でも石原千秋は、特に優れた小説の読み手だと思う。この本でもその力は発揮されていて唸らされる。新書という本のなかで、コンパクトに明治文学の基礎知識を語り、その上で独自の漱石論を展開した本書は、明治文学研究の教科書としても非常に役立つだろう。この本の内容をまるまる暗記しておきたいと思った。
本書のタイトルでもある「三人の読者」とは何か。これが重要なことだが、まず石原は漱石が「読者」を常に意識しながら作品を執筆していたことに目を向ける。その上で漱石が意識していた「読者」とは何か、をテクスト読解から浮かび上がらせていく。ここで、石原は「読者」を3つの層に分けた。それはまず漱石にとって「顔の見える読者」であり、次に漱石にも「何となく顔の見える読者」であり、そして3番目の読者は「顔のないのっぺりとした読者」である。
「顔の見える読者」とは、たとえば漱石の周囲に集まっていた青年たちのことだ。実際に漱石の身近にいて付き合いのあった人たちだ。では「なんとなく顔の見える読者」とは誰か。漱石朝日新聞に新聞連載小説を執筆していたが、いわば同時代に新聞を読むような階層にいた読者のことだ。とりわけ本書では「朝日新聞を読む読者」ということになるのだが。「顔のないのっぺりとした読者」とは、要するに漱石にはまったく予想のつかない読者ということになるだろうか。したがって、漱石と同時代の読者というわけでもなく、「可変項」の読者、入れ替え可能な読者ということだ。こうした読者が、テクストの構造に組みこまれているのだというのが本書の主張なのである。
漱石はつねに読者を意識して執筆したと先に書いた。まず漱石は「顔の見える読者」に向けて小説を書いた。そして朝日新聞に入社後には、新聞を読む読者に向けて書くことになる。だが、『虞美人草』において、漱石は読者に裏切られる。自分の意識していたものとは異なる読者がいることに気が付くのだ。それが第三の読者ということになる。漱石は、新聞社の社員として、この第三の読者に向けても小説を書くことになるだろう。その時、漱石はどうしたか?たとえば、小説中に「死角」を組みこむ。「死角」とは小説の主人公には見えない部分ということだ。小説の構造として組みこまれた「死角」は、読者に多様な読みを誘発することになるだろう。
つまり、漱石の読者意識の拡がりが、のちに漱石作品に多様な解釈を産み出すことになったのだということになるのだろう。この論は、なかなか興味深い。
本書の作品分析で、最も面白く興味深いのは『三四郎』の読解であった。ここで、美禰子がだれを挑発していたのかという点から、三四郎と美禰子が初めて出会う場面を読み解いている。当時の東大の構内地図などを参照しつつ、人物の動きを推測し、美禰子が挑発していた人物を探り出す。この読み解きはかなり面白いはずだ。こういう研究に憧れるし、激しく嫉妬した。
ほんとにテクストとは読もうと思えば、いろいろな読み方ができるものだとあらためて感動した。

漱石と三人の読者 (講談社現代新書)

漱石と三人の読者 (講談社現代新書)