一貫した方法

三浦雅士『私という現象』講談社学術文庫
この間、『青春の終焉』を読み終えたところなので、その余勢を駆って、三浦雅士の初期作品であるこの本を読んでみた。たぶん、以前に一度読んだと思うのだけど。
読んで気がつくのは、三浦雅士という評論家は、初期から現在に到るまで、論じるテーマが変化しないということだろうか。つまり、三浦氏の評論はつねに「自意識」が問題になっている。どんな小説や詩などを論じるときも、私とは何かという意識がどのような形で表現されているのかが描き出される。
そうなると、数々の評論のキーワードとなる「自意識」とはどんなものだろうか?簡単に述べてしまえば、それは「ズレ」から生じるものである。では、何と何のズレか。文学ということでいえば、言葉が指示するものと、言葉によって指示されるもののズレということになるだろう。

言葉はつねにさえぎるものだ。それは、それでないものをそれによって指し示すがゆえに、つねにそれをそれでないものとの決定的なずれを告知する。言葉は、私と世界とがずれていることを、私とあなたがずれていることを、いや、私と私自身がかすかにしかし決定的にずれていることを不断に告げ知らせるものだ。そして、私と私自身のずれこと、私という意識の、私という不幸のはじまりにほかならない。(p.125)

あともう一つ、三浦氏の評論に特徴的な語り口がある。それは「転倒」と言える。通説を転倒させるのが、三浦氏の方法である。

たとえば人は、漱石の文学は近代の矛盾を鋭く描いたと言う。しかし、近代が漱石の文学を生んだのであってその逆ではない。小説が近代を描写する以前に近代が小説を産んだのである(p.163)

このことは、『私という現象』というタイトルそのものが明瞭に語っていることではある。この三浦氏の語りは、ずっと変化していないと思う。『私という現象』の元の本が出たのが1981年。とすると、およそ20年以上の評論生活になるが、その間、方法が一貫していると言える。このことに、私はちょっと驚いた。