野坂昭如『文壇』

野坂昭如『文壇』文春文庫、2005年4月
「文壇」という言葉に引かれて読んでみる。野坂昭如は、テレビではおなじみだが、小説を読んだことはなかった。映画の『火垂るの墓』はテレビで見たことがあったけれど。
物語(で良いのか?)は、とあるパーティーから始まる。まるで罪人のように壇上の椅子に座っているのは色川武大昭和36年の初秋のことである。この物語の語り手兼主人公である野坂が、はじめて「文壇」と関わりを持った出来事であった。
まだ小説も書いていなくて、雑誌に雑文を書き散らしたり、エロ映画なんかをひそかに上映していたり。そして活字に移りたいと願い、小説を書こうとしている。パーティーでは、舟橋聖一に「シッシッといわんばかり、手の甲を上に振って、追い払う仕草」をされている。
そんな時代から、代表作「エロ事師たち」の誕生をへて、やがて直木賞を受賞し、流行作家へと進んでいく時代を描く。「文壇」とは何だったのか。「小説」とは何か。昭和30年代から40年代の「文壇」の雰囲気がよく分かる。
この時代、「文壇」というか文学の世界で大きな存在を一人挙げるとすれば、やはり三島由紀夫だろう。野坂にとっても三島が重要な存在であったことが理解できる。三島のおかげで作品が海外に翻訳されたりしているし。また三島は、野坂の小説をつまり「エロ事師たち」などは認めていた。三島と野坂の関係も興味深い。本書では、野坂の三島評に注目できる。
野坂は、三島の華麗な文章を評して、あの華麗さは日本語を信用していないことの裏返しではないかと見ている。

また、去年、発表されて、話題となった「英霊の声」盲目の青年が、憑依状態となり、歌い出す。三島は、言葉における表現の、もっともあるべき形を、あれにおいているのではないか、つまり近代日本語を信じていない、さんざ装飾過多を指摘され、退廃した文体といわれながら、なお固執したのは、むしろその空しさを強調するためじゃないのか。(p.129)

近代日本語の空しさを強調しているという指摘は、三島の文学をあるいは三島の思想を考える際にヒントになるかもしれない。
小説と日本語の問題は、常に「小説」とは何か、自分の書いているものは「小説」なのかを問い続けている野坂にとっては重要であった。小説を書くには近代日本語はふさわしくないのではないか。それゆえ、小説ではなく「私小説」を書くしかなかったのではないか。

野間は軍隊という「異国」、その文化を写そうとして、あの「真空地帯」、小田も多分、多様な外国体験を通じ、なんとか人間を描こうとして、くどくなる。西洋教養派も同じ、だが、日本を題材にして、西洋に生れた技法を駆使すれば、それらしく仕立て上がるほど空々しさが伴う。日本語は合っていない。三島は、天性のものに違いないが、きらびやかな、しばしば空虚な形容、語彙を用いるのは、これに気づいた面もあるのではないか。私小説は身につまされ小説、これは楽。(p.266)

引用したものからも分かるように、野坂の文体は読点を多用し、ぶちぶちと切れ、手帳に記したメモのような特徴的な文体。けっして読みやすいものではないし、三島のように華麗な美しさもない。泥臭いほうかもしれない。しかし、独特の文体のリズムが読む者を酔わせる。というか、この文体は読者に感染してしまうのではないか。本書の解説の人の文体が、なんとなく野坂っぽいのが笑える。読点の多用、助詞の省略、メモするように、ほら、野坂っぽい文体。
この時代、「文壇」とは「文壇バー」がもっぱら主要な舞台。様々な「文壇バー」が登場する。そこに作家や編集者が集まる。野坂は、この人たちを観察していたのだろうか。「文壇バー」の様子がつぶさに語られているのも本書の魅力の一つ。

文壇酒場にいれば、その陰湿な面はよく判る、小説家は嫉妬深い。めきめきこの手の店としてのしてきた銀座八丁目五階の「眉」。「カヌー」に始まり「姫」に至ったぼくの知る店集大成の感じ、「未来」「茉莉花」系、野間、井上、小川国夫、埴谷の姿はなかったが、丹羽から江藤、純文学新人作家まで、連夜、小説雑誌の目次登場の面々が十数名いる。当然、編集者も丸椅子に座って、こちらに大江と二、三人、そこへ江藤がふらりと一人でやって来て入口近くに席をしめる。常に眼配り利かせる編集者、文芸関係者なら当然双方と近しい、また、両名相いれぬと承知。トイレットは入口と逆の側だが、立つふりして、大江に侍る一人が、ホステスにまぎれ江藤に挨拶、客の中の両者に近い同業者がさりげなく、雰囲気を和ませる。消息に通じるマダムにもこれはかなわず、この編集者気苦労はこの店に顕著だった。(p.236)

鋭い観察眼。

文壇 (文春文庫)

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