<美少女>とは何か

ササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史』講談社現代新書
まんがやアニメにおける<美少女>のイメージの意味を論じている。私の中の疑問がいくつか解ける。なかなかの良書。とりわけ、<美少女>を論じてしまう男性を素材に取り上げて論じたことの意味は大きい。というか、私の疑問というのも、まさにこのことと関連している。
私は、子どものころから、まんがやアニメの熱心な読者ではなかったので、まんがやアニメの話というは正直けっこう苦手だ。したがって、この本に出てくる作品もほとんど見たことも読んだことがない*1。そんな個人的な事情もあってか、サブカルチャー論に興味はあるが、話についていけないということで、少々妬みを感じている。私が一部のサブカルチャー研究やカルチュラル・スタディーズに共感できないのは、そのこととも大きく関連する。
ところで、最近の批評でもまんがやアニメを論じたり、取り上げられたりすることが多い。とくに、私より上の世代、いわゆる新人類と呼ばれた人たちはが熱心にサブカルチャーを使って現代思想を語ることがある。私にはどうもそれが解せない。私は、どちらかというと古臭い感性を持っているので、批評はやっぱり「純文学」しかないだろう、まんがやアニメなどがまじめに批評の対象になるのか、と「本音」では思う*2
というわけで、最近の若い批評家や評論家が、現代思想や難解な理論を理解しつつ、その一方でどうしてまんがやアニメにもまた同時に詳しく、それについて語るのか不思議に思っていたわけだ。
さて、本書によると、まんがやアニメにおける美少女的な構造とは以下のようなことだ。

女性の「内面」を意識することで、自分がそれを傷つけてしまう可能性を自覚し、それゆえ自由な行動ができなくなっている姿(p.166)

まんがやアニメのなかで、<美少女>というキャラクターが突出すると同時に、男性の登場人物は、自分が<美少女>を傷つけてしまう性であることを意識してしまい、最終的に自分の欲望を常に断念させられる構造があることが指摘されている。(cf.吾妻ひでお)
私が注目したのは、男性の困難が二段階にわたって生じたことが述べた箇所だ。
一つ目の困難は、「オヤジ的お色気コード」に属する視線の特権性を暴いて、「ストレートにエッチな視線」というものがら撤退せざる得なくなったこと。これによって、一方でラブコメブームやロリコンブームが生じてくる。
そして、「そのとき男の子たちは、彼女を内面的に理解しようとし、彼女の気持ちをわかってあげられるような僕であろう」(p.179)とした。この時の教科書となるのが、おそらく少女まんがであったのだろう。しかしながら、これはまた新たな特権的な立場の誕生でもあった。それは、「彼女の内面をわかってあげられる僕」という特権的な立場である*3

「美少女」世代は、彼女の内面を思いやり、理解するという行為を通じて、「そういう能力を持っている僕」という新しい優越的な場所を確保しました。それは無意識のフェミニスト的偽装により、安心してそこにとどまることを可能にしたのです。(p.180)

二度目の困難とは、この安住の地にとどまることが困難になってきたことを言っている。これは、具体的には80年代後半の少女まんがの崩壊のころと重なる。この時期あたりから、「彼女の内面をわかってあげられる僕」と女性との共犯関係が崩れ、こうした「僕」の視線の暴力性が剥き出しになってきたと論じている。こうした状況によって、ますます美少女というキャラクターが求められるだろう、と。
私がこの部分に興味を持ったのは、これはおそらく宮台真司批判なのかなあと思ったからだ。とくにブルセラとかテレクラを論じていた時期の宮台氏への批判というか。そんな印象を受ける。宮台氏のブルセラ論の敗北もこれと関係があるのだろう。このことが分かっただけでも、この本を読んだ甲斐があった。大きな収穫だ。
それにしても、自分自身の存在価値を根拠づけるものが、男性には<美少女>しかない、という時代状況あるいは社会というは、どうなんだろう?これで良いのだろうか…。

*1:私は、「ガンダム」ですら見たことがないので。

*2:とはいえ、まんがやアニメ作品そのものに価値がないと言いたいわけではない。良いまんがやアニメがあるのもまた事実。

*3:このことは、橋本治がすでに指摘しているという。思うに、同時期に少女まんがを読んでも「彼女の内面をわかってあげられる僕」になりそこねた人は、後年、「もてない男」となってうらみを晴らすのだろう。