福田和也『日本人の目玉』

福田和也『日本人の目玉』ちくま学芸文庫、2005年6月
あとがきには、こう書かれてある。「批評の本を書こうと思った。」

 私にとって批評とは、もっと致命的な、人がその選びえない対象の中で何を取り、何を捨てるかという全存在をかけた判断のように思われた。それはもとより、いわゆる批評家の仕事よりも、大きく広大なものである。(p.368)

近代俳句から西田幾多郎九鬼周造洲之内徹青山二郎三島由紀夫坂口安吾川端康成、そして小林秀雄について論じることを通じて、このことを提示した。小林秀雄ベルグソン論である「感想」を、著者は「ダイモン」を率直に露呈させている作品と言う。小林秀雄にとっての「ダイモン」とは何であったかはともかく、小林は「ダイモン」を語らざるを得なくなったという。ちなみに、「ダイモン」とは古代ギリシャでの死者の魂や悪霊などへの働きかけを指し、そこから偶然の背後にある必然をつかさどる力と言われる。この小林秀雄が語らざるを得なかった「ダイモン」。これこそが、批評という営みということになるだろうか。
いろいろ論じてはいるけれど、特に目新しい箇所は無かった。私が本書のなかで面白いなと思ったのは、川端康成を論じたところだ。あらゆる「けじめ」がないという川端。はじまりもなければ終りもない。境界が融解してしまっている川端という指摘は、とても興味深い。

主体と客体、自分と他者、現在と過去、原因と結果というあらゆるけじめを押し流すアパシィによって川端の文章は成り立っており、その文がなすのは、伝達ではなく、露呈であるという事があきらかだろう。(p.290)

川端康成の小説を読み直さないといけない。