強烈な印象を受ける

渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』北海道新聞
けっこうボリュームのある本だったけど、やはり中身が面白いのですらすらと読んでしまった。この面白さは、残念ながら書き手の力というより、論じた対象、つまりこの本の中心人物となる鹿野氏とそのボランティアの力に寄るところが大きい。それほどインパクトのある人たちである。
おそらく著者の関心は、どうして障害者の介助に多くの人が自発的に参加するのだろうか?ということにあるのだろう。障害者と健常者のコミュニケーションの現場が本書でクローズアップされていた。
本書のなかで描かれる鹿野氏は、障害者とは思えないほど、自己の要求をはっきり主張する。それはときに人によっては、「わがまま」に写ったりする。なので、ボランティアとも当然衝突する事が多い。そのような鹿野氏とボランティアの人たちは、どのような関係を築いていたのか。著者の疑問はそこにある。そもそも、著者は鹿野氏が恋愛もしていたということを聞いて、そのことに漠然と興味を持っていた。
障害者と介助者の関係が理想的なのは何か。それは、おそらく両者が対等の関係である、ということだろう。健常者が障害者を見下すようではダメだし、逆に障害者の言うことをなんでも受け入れてしまう介助者でもうまくいかない。ここでの「対等」な関係になるために、まず介助者が受け入れることができるものとできないものをはっきり伝えることが挙げられる。

何が許せて、何が許せないないか、ということに、その人の「自我」があらわれるからだ。それがはっきりして初めて、障害者の方も、「この人にはここまでは頼める。これはこの人には頼めないから別の人に頼もう」というような介助者の”人柄”をつかむことができる。(p.100)

いわば、「個」と「個」の関係になるとは、上記のようなことを言うのだろうと思う。しかしながら、こうした関係を築くのは、理想的な形は分かっても、実際現場でできるのかといえば、そう簡単にできることではない。おそらく、この本には描かれていないところで、多くのコミュニケーションの失敗があったのだろうと思う。だから本当は良くなかったのだ、ということではなくて、そもそもコミュニケーションというものが、実際にやってみないとどうなるか分からないし、やりながら修正していき、それでなんとかうまくやっていく、ということでしかないのだろう。その意味で、これが「正しい」障害者と健常者の関係だ、ということはあり得ない。

まず一つは、障害者と健常者の”つながり方”や信頼関係の築き方は、じつに多様であるということだ。(p.117)

したがって、著者は

大切なのは、幻想や思い込みに縛られず、目の前にいる障害者の「生の現実」と向かいあってみることでしかない。そして、あくまで健常者としての、自分の正直な見方・感じ方を基盤にしながらも、それを踏まえた上で相手とどのような関係を築いていけるかだろう。(p.125)

と述べる。ここで、一つ問題になることがあるとすれば、「障害者の聖化」ということだ。障害者を何か特別な存在として見てしまうと、うまく関係が築けなくなるようだ。本書のなかで、印象的なのか「普通」であることが何度も問われることだろうか。
あと、私自身が気になる点といえば、「障害者の聖化」とも関連するのかもしれないが、障害者/健常者という差だけではなく、障害者の内部においても差がある、ということに注意しなくてはいけないのではないか、ということだ。鹿野氏をはじめ、その友人や仲間は、障害者の立場を社会に訴えて、社会を福祉を変えようと努力をしている。しかし、障害者がみんな社会にその存在を訴えようとするわけではないことも、当たり前だけど、見逃せないなあと思う。一人一人「顔」を持っているということを忘れてはならない。
こういう本を読んでおくと、たとえば立岩氏の論文など読むときに非常に参考になるなあと思う。