アルチュセール

以下、私的なメモ。
浅田彰アルチュセールイデオロギー論の再検討」(『思想』707号、1983年5月)

  • アルチュセールは、上部構造の介入という曖昧な把握を明確にするために、これを国家装置(国家の抑圧装置+国家のイデオロギー装置)の働きとして捉え直す。

経済の審級における生産諸条件の再生産は、国家装置の働きによってはじめて保証される。また、それこそが国家装置の機能に他ならない。(p.48)

すべての国家装置はこの両者を併せもっている。

国家は支配階級による直接的支配の道具ではない(p.48)

支配階級はその権力を直接他の階級にむかってふるうことはできず、社会全体に対する国家装置の支配力という転化された形態のもとで間接的に実現することしかできないのである。(p.48)

  • ARE(=国家の抑圧装置)は、政府・行政機関・軍隊・警察・裁判所・刑務所などから成る統一体。すなわち公的な領域。
  • AIE(=国家のイデオロギー装置)は、宗教的・教育的・家族的・法律的・政治的・組合的・情報的・文化的などの諸形態のもとに、相対的自律性をそなえた諸装置に分かれている。

アルチュセールの言葉を借りるなら、ある階級はAREをわがものとすることによって、指導的階級となるが、それが支配階級として自己を確立するためには、AIEを通じて自らの階級的統一を実現すると共に広汎な大衆の暗黙の支持を確保することが不可欠である。(p.50)

分散状態にあるAIEの多様性をまとめるのは支配階級の支配的イデオロギーである。しかし、AIEは「相対的自律性」をもった「相矛盾する諸形態」で実現されるにすぎない。

従って、諸々のAIEの統一を強調する余りそこにあるズレや矛盾に目をつぶることは、危険な誤まりである。(p.50)

AIEを国家装置の一環と考えることにより、AREだけでは到底覆い尽くすことのできない広大な領域が国家論の射程に入ってくるのである。(p.50)

カルチュラル・スタディーズアルチュセールを重要視したのはこのあたりの事情があるからだろう。