アナーキズムについて知りたい

遅ればせながら、『現代思想』2004年5月号の「アナーキズム特集」を少し読む。吉田喜重の映画を見て以来、アナーキズムについて知りたいと思うようになっていたので、この特集号はかなり魅力的だ。
アナーキズムと日本映画では、映画史研究の平沢剛氏が「日本映画におけるアナーキズム試論」という論文を書いており、これによって60年代から70年代の日本映画の状況を知る。鈴木清順の映画が見たくなる。
森政稔氏の「アナーキズム的モメント」は、はじめにアナーキズムの思想史を整理したあと、後半でプルードンの読み直しをしていて刺激的な論文。アナーキズムについて何も知らないので、前半部分の思想史の整理はかなり勉強になる。
プルードンに「アソシエーション」への志向があったことは、すでに指摘があることだそうだが、ここではプルードンが「「アソシエーションが自由の味方か抑圧者か定めがたい」という立場」を取ったということに、プルードンの独創性を見ている。アソシエーションのような中間集団が、国家の専制に対抗し個人の自由を擁護する機能も持ちうるが、中間集団それ自体も抑圧の可能性を秘めているということ。この問題は、いかなる集団でも重要なことだし、興味がある。問われるべきは、「いったいいかなる力が、個人、中間集団、国家を貫いているか」だそうだ。これは覚えておこう。
最近、というかしばらく前から、特に「セカイ系」などで見られるような、「この私」という非常に小さな世界と「世界の終わり」のような大きな世界とが、短絡してしまう物語が受けているという。「この私」と「世界」のあいだに何もない、ということらしい。なるほど、共同体の崩壊という神話が、このような形で現れているのかと至極納得していたところだった。
そんなわけで、「私」という「個」と抽象的な「世界」を繋ぐような中間集団がやっぱり必要なのか、ということを考えていたので、この論文は参考になる。中間集団というものを知る必要があるなあ。その上で、この「動物化」と呼ばれる現代社会において、中間集団的なものが必要なのかどうか、必要だとした場合どのような形態が望ましいのか、そんなことを考えてみたいと思う。